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参議院の動き

参議院70周年記念論文表彰式

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 傍観者

茨城県  茨城県立小瀬高等学校 1年

鈴木  蓮

「あの選手は、何をしているんだろう。銀メダルなんだからもっと喜べばいいのに。」2位で戻ってきた選手は、高く掲げた両手で×印を作りながらサンバ会場の長い直線を走りぬけました。昨年8月に開催されたリオデジャネイロオリンピックに出場したエチオピア代表のそのマラソン選手の名はフェイサ・リレサ。彼の母国エチオピアでは、相次いで発生した反政府デモを当局が弾圧し、治安部隊によって多数の市民が殺害される事態が起きていました。銀メダルに輝いた彼は、その行為によって世界の人々にエチオピア政府による自国民への弾圧を訴えたのである。本来、オリンピックとは、政治的な活動と無関係でなければならない。オリンピックに出場する選手が、何らかの政治的メッセージを伝えることは、行ってはいけないことである。しかし、彼はそのようにせざるを得なかったのである。幸いにも彼の行為は糾弾されることはなかった。それは、命をかけた行為であったから人々を動かしたのである。オリンピックという世界中の人々が注目する舞台で起きたこの出来事。彼のその姿はエチオピアから遠く離れた日本の高校生である私にも、何か問いかけてくるものがあった。エチオピアの凄惨な現状。そしてこのような自国の現状を目の当たりにしたときの彼の思い。これらは、私が住むこの平和な日本とは全く関係のないことなのであろうか。エチオピアは黒人とアラブ人の混血のエチオピア人種が大多数を占め、80以上の異なった民族集団が存在する多民族国家として有名である。民族だけでなく、言語、宗教ともに多種多様で複雑な関係性をもっている。日本人という1つの人種が、大多数を占める日本で、さらに現在のような平和な時代に育った私には、想像もできない世界である。

私は昨年の夏休みに、茨城ハイスクール議会に参加する機会を与えられた。そこでは高校生が議員となって、本当の議会と同じように議論が進行し、課題について自由に意見を出し合ったのである。最終日には、茨城県知事にまとめた提言を発表し終了となった。

私は、生まれてから今まで、ほかの人と違う意見を述べたことで命の危険を感じたことはない。この夏休みに参加した茨城ハイスクール議会においても、自由に発言することができたし、命の危険を感じる事、いや、嫌な思いを抱くことも全くなかった。これは、参加した全ての高校生が抱いた思いであると考える。日本は、政府が国民を弾圧することもなく、他国と戦争状態にある訳でもない。自由に自分の意見を述べることができる国である。そのように考えると、日本はエチオピアのように自由を奪われ苦しむようなことは起きていないと言い切ってよいのであろうか。

否、必ずしも起きていないと言い切れないと考える。日本にも様々な人権侵害がある。エチオピアのような民族や宗教といった大きな違いから生じるものではないが、私達の身近にあり、あまりに身近なために見過ごしているのである。当たり前すぎる出来事、これまでも何度も見てきた、いじめである。いじめも大きな人権侵害である。いじめに遭い不登校になったり、転校したりする話はよく聞く。しかし、私たちはそれに対してあまりにも無関心であると言えるのではなかろうか。自分と関係性の薄いところで起きているためか、事件が衝撃的であっても、時間の経過とともに忘れ去られてしまうように思われる。なかには、自殺してしまう人もいる。いじめが起こるまでそこにいたはずの人がいなくなったとしても、何もなかったかのような日常が戻る。このような態度でいいのか。日本の文部科学省が発表した調査報告によると、日本では、全国の小中学校で合わせて7万件以上の生徒同士のいじめ事件が発生している。そのうち自殺した小中学生は200人に達しており、過去25年間で最高水準となっている。この事実は何を物語っているのか。本当に日本は自由に意見が述べられる国であると胸をはって言い切れるのであろうか。いじめの内容について詳細に調べてみると、「悪口を言われ、からかわれる」が最も多く、「殴られる」「ものを盗まれる。壊される」「パソコン、携帯電話などでの誹謗中傷」などが続く。これらは、犯罪行為でもある。この調査によると「いじめ」は、ある程度人間関係がある人から心理的や物理的な攻撃を受けて、精神面でつらい思いをすることと定義している。毎年、各都道府県の教育委員会は子どものいじめの状況調査を行っているが、ここ最近、数件の中学生の自殺事件が学校での同級生によるいじめで引き起こされたものだと認定され、日本社会で広く注目を集めている。このことを一過性のことに終わらせてはいけないのである。このまま看過できないところまで来ている状況である。ところで、いじめは日本に限られた固有のことなのであろうか。決してそのようなことはない。例えば、オーストラリア、ニュージーランド、マレーシア、アメリカ、カナダなど、私達がよく知っている国々でも、それぞれの国でいじめ対策を講じている。ということはそれらの国においても、いじめが起きているのである。日本だけが突出していじめが多いという訳ではないのである。ところが、気になるデータがある。日本では他国より、「傍観者」(別に何もしない)の割合が多く、「通報者」(先生に知らせる)「仲裁者」(やめろと言って止めようとする)が少ないという傾向が指摘されているのである。いじめが起きた時に、友達に止めて欲しいというのは、少なくとも「傍観者」を減らすことを願っているのである。

厚生労働省の調査によると、小学校から中学校にかけて、「仲裁者」と「通報者」が減少し、「傍観者」の割合が増えている。「傍観者」が増加するということは、長期化しやすい学校でのいじめを、ますます深刻化することにつながる可能性がある。日本人の気質として、他人との争いを避け同時に和を尊ぶということが、悪い方向に出ているように感じられる。誰もが「傍観者」を否定するはずであるのに、なぜいじめを見ているのに知らないふりをするのかということを考えなければならないであろう。その原因の1つに、自分もいじめられるのが怖いから。知らないふりをするのが一番楽な方法だから。ただ、それを肯定してしまうことは、自分の意見を人に伝える勇気がないからに他ならない。自分は「傍観者」になってはいないか?私は常に自問自答している。いじめも戦争も根本は同じであると考える。いじめは小さな社会で個人的に起こる人権侵害で、戦争は国と国とが起こす大きな社会の人権侵害である。どちらも、自分の意見を人に伝えることを怠り、一番楽な方法を選んだ結果起きることと言えるのではなかろうか。リレサ選手には、その自分の意見を人に伝える勇気があった。しかし、誰にでも出来ることではない。逆に、彼のような行動ができる人は少数で、できない人の方が大多数なのではないかと考える。これから、グローバル化が今まで以上に進展することを考えると、世界中には、多種多様な考えがある。あって当たり前であるし、なければならない。その考え方は時にはぶつかり合います。しかし、その考え方の違いをことさらあげつらい弾圧するのではなく、お互いの違いを尊重しながら、合意を目指すことが大切だと考える。異なる見解をもった者同士が、互いを尊重しながら合意点を探り、話し合うからこそ、課題解決の新しい考えが生まれてくるのである。私たち日本人もお互いの人権を真に尊重しながら、意見を戦わすことを考えるときが来ているように思う。

自由とは、私たちひとりひとりの内側に存在し、自分が自分らしく生きていくために必要なものである。今の私は、誰かに強制されることなく、弾圧されることもなく、自分で考え、意見を述べることができる。そのことが本当に当たり前すぎている現状を、本当にそうなのかという視点で疑ってみることも必要である。本来、世界中の誰もが、リレサ選手のような命の危険を冒すことなく、自分の意見を主張する権利がある。これからの時代に必要なことは自分の意見をしっかりと持ち、発信し、相手との違いを認め合いながらお互いを尊重することだと思う。私たちが例え小さな一言であっても、お互いを尊重することの大切さを訴えていけば、必ず理想の世界が広がっていく。私は、そう信じている。そして今の生活の中でも、私達が当たり前のように思っている人権の大切さを、私達自身が再確認して考えていかなければならないと強く感じる。このことは、私が大事にしなければならない背骨として政治家を目指したい。絶対に「傍観者」になってはいけないのである。自分の意見をしっかりと持ち、どんなに困難であってもお互いを尊重した態度で話し合うことで、物事の解決を目指す政治家を志したい。何より、立場が弱く自分の意見を主張できない沢山の人の小さな声を聴き、できることならば、小さな声が集まり大きな声となるように、代弁できる政治家になりたい。そのことで、一人一人が勇気と自信を持てる国を作っていきたい。現在日本では、人権侵害救済法案が提出されている。反対意見も多くあると聞いている。反対のための反対意見を述べるのではなく、この現状を解決することに視点を置いた建設的な意見を戦わせるべきである。現に今、この世の中のどこかで人権侵害を受けている人を、政治が助けられる具体的な解決策の1つとして法案が出来上がることを期待したい。

リレサ選手のような悲劇が、いじめで自殺する中高学生が、そんな時代があったんだと過去形で言えるような未来の世界のために、努力できる人になりたい。