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参議院の動き

参議院70周年記念論文表彰式

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 高校生議会常設化のススメ

三重県  高田高等学校 2年

稲葉 雅紀

三重県と聞いて、皆さんはどんなイメージを抱くだろう。古くから天照大神を祀る伊勢神宮の恩恵と豊かな海と山の幸に支えられた美し国。このような表現をよく目にする。ただこれは、三重県内にある「伊勢志摩地域」のイメージであるに過ぎず、「三重県」全体を指して言っているわけではない。歴史的に見てもわかるように、三重県はもともと「伊勢」「紀伊」「伊賀」の3つの旧国が集まった集合体で、現在ではさらに「北勢」「伊賀・名張」「中勢」「南勢」「東紀州」の5つの地域に地理的に細かく区分されている。よく地域創生の際に使われる「県民が一丸となって…」「オール○○の精神で…」という決まり文句は、皮肉なことに三重県民の心にはあまり響くものではないのである。県内の人々が交流するには厳しい自然環境に置かれているため、他の地域と接する機会が滅多にない。

昨年、僕の地元である三重県では、伊勢志摩サミット開催に関連して、三重の高校生サミットが行われた。これは、ジュニアサミットの日本代表メンバーが、実際に学んだ知識を三重県の高校生と共有し、将来の三重県のためにすべきことを県内高校生が話し合うものである。僕は、このイベントに参加するのをとても楽しみにしていた。というのも、日頃から他校の生徒と交流する機会を欲しており、実際三重県の高校生がどれほど三重県のことを真剣に思っているのかとても興味があったからである。結果はその予想を良い意味で裏切ってくれた。様々なテーマについてグループで議論をし、その後各自が持論を発表した。一見シンプルに見える進行であるが、独創的なアイデアが飛び交い、発表ごとに質問時間も設けられていたため、より深い意見交換ができた。なによりも嬉しかったのが、90人という参加人数である。三重の将来を考える仲間が目の前にいる光景はたまらなかった。イベント終了後には、各々が別れを惜しむ、ただそれは卒業式のような単なる悲しみではなく、地元のために頑張ろう、という明るい希望に満ちあふれた別れであった。

しかし、このイベントはそれ以来開催されていない。もったいない。続ければ更なる議論の深掘りが期待され、学校・地域を超えた意見交換も続くというのに…。そこから新たなアイデアが生まれる可能性も充分にある。

あの雰囲気をまた味わいたいと思った僕は、その夏、三重県高校生県議会に出席し、この高校生サミットの必要性を現職議員に説こうと決心した。「県内高校生独自のコミュニティ」「ディスカッションの場」「高校生だからできる独創的な問題解決能力」という3つの根拠のもと、三重県議会へ臨んだ。これほど見事な質問はないだろう。正直、僕は密かにそう期待していたのだが、その期待もまた見事に裏切られてしまった。なんとどの学校の質問も、各校の特色を活かした、彼らだからこそ言える個性的かつ筋の通ったもので、彼らの県政に対する熱い想いがひしひしと伝わってきたのである。まさに自分が井の中の蛙だとわかった僕は、もう笑うしかなかった。どうした稲葉、三重を舐めてもらっちゃ困るね。イベント企画者のニヤついた顔が終始目に浮かんだ。ここでは、高校生同士が議論を交わすのではなく、現職議員に本音をぶつけることができた。そのため、県政に関わることの責任感を各校で確認し合えたことは、とても大きな成果だと言ってよいだろう。

しかしこのイベントも、残念なことに不定期開催なのである。後日質問に関する県の現状を把握できる機会も設けられていないので、自分の述べた「高校生サミット案」はどうなったかはあやふやとなっている。いずれも対話形式のイベントであるが故に持続性が不可欠なのである。

僕のこのモヤモヤは、まるで甘酸っぱい恋のようにずうっと心の底でうずいている。そう、高校生でも地元の政治に貢献したい、県内高校生が一緒になって未来の地元の将来像を描きたい、そういう欲が僕を突き動かしているのである。

僕はそんな未来の日本を実現するためには次の3つの要素が不可欠であると考える。
「ディスカッションの授業スタイルの確立」
「生徒会の地位向上」
「高校生議会」。

まず第1に必要なのが、「ディスカッションの授業スタイルの確立」。より多くの量の知識を伝達できる一番効率的な方法は、先生が一方的に教えを説き生徒はひたすらにそれをノートに写す、という方法であることは間違いない。ただ、伊勢志摩サミットで多く謳われた「国際的な社会へ」という表現からわかるように、日本も今の欧米各国のように移民が台頭する国となる日も近い。ただその日が訪れたとき、私達は決して彼らを排除しようという感情は抱くべきではない。かつての日本人がブラジルへ移住したときのように、一家の生活をかけて、見知らぬ国で日々生きようとする彼らの生き様は尊敬すべきだからである。ならば今の教育システムを変え、柔軟に独創的に生きることのできる子どもを応援するのが僕達の使命なのではないだろうか。授業の一環としてディスカッションの機会を組み込むというこの案は、そういう点からもとても重要な役割を果たす。生徒が主体となり、お互いが各々の「業」を「授けあう」ことでこの授業は成り立つ。受験勉強において誰もが「仲良し友達と手を繋いで和気あいあいとする気持ちでいてはいけない。個人の戦いである」と言う。だから、今の学校生活において子どもたちは「自分の知識を他人に与えると自分がかえって不利になる。」と思いがちになる。生徒が生徒に教えるケースもあるが、その際は明らかにできるものが優越感に満ち、教えられる者が劣等感を帯びている上でできているため精神的な格差が芽生えているのである。そこから、知らないことは恥ずかしい、情けない、なんでも自分でやらねばという不必要な使命感をも抱いてしまう。さらに連鎖が進めば、悩み事を抱いても自分で抱え込みがちになる人間を生む事態となってしまう。平等な社会を目指す上でも、このような格差を作ってはいけない。

2つ目は「生徒会の地位向上」である。これからの子どもが生きていく上で、義務教育期間に政治の仕組みを理解しておく必要がある。小学校の頃の先生が「学校というのは社会勉強の場である」と述べたことがとても印象に残っている。地域活性化などを達成するために、国民ひとりひとりの自治意識を高める必要がある。選挙に行かない人の意見で「どうせ自分が投票したところで…」という諦めムードが漂いつつある。ただそういう思想が広がってしまうと、間接民主制という名の、一部の人間による独裁的な政治を招きかねない。このネガティブ思考を消すべく、一度小さな単位の「直接民主制」の社会を経験しておくことが重要なのではないのだろうか。学校ではどうだろう。僕達の意見・意思が学校という社会に届く体制が整っているだろうか。知らず知らずのうち「先生の言うことを聞いていれば、自分たちがするより確実だ」という危険な安心感を生んではいないだろうか。僕はそこに現在の投票率の低さの根底があると考える。生徒会とは、教員と生徒を結ぶ、いわば国会のようなものだ。僕は、現在の生徒会の基準を見直し、学校内で理想的な直接民主制を実現したい。

最後は、「高校生議会の常設化」である。生徒が地域政治に関心を持てる、自治意識が芽生える、仲間と出会えることはこの案の中でのメリットだが、このシステムを全国規模で行ってみるのも面白いと思う。47都道府県の高校生議員が独自のネットワークを築くのだ。例えば三重県の場合では、伊勢志摩サミットに関連して全国の高校生に情報を発信し、意見を求めることが可能になる。実をいえば、この3つ目を実現すれば自然と1つ目、2つ目も形になっていくことが期待できる。高校生が本格的に政治に向かっていく姿が大人の目に映れば、「生徒会の充実をして、より現実社会に近い学校をつくろう」「議会に参加できる生徒が増えるように、授業でもディスカッションを取り入れてみよう」と大人達も働きかけてくれるのではないだろうか。

今、日本では若年層の政治意識が薄いと批判されている。まさにそれは現在の教育環境が大きく影響しているだけに過ぎない。僕達政治に対する教育環境を整えさえすれば、そのような批判も自然と消えていくだろう。この問題が解決すれば、自分の地域の問題は自分達で考える習慣も芽生え、地元愛が生まれる。過疎過密化の解消や、地方分権に合う社会も形成されていくだろう。

この論文の作成に先だって、様々な職種の方に現代日本についてアンケートをとってみた。アンケート項目の中に「被選挙権年齢引き下げ」について、その是非を問う質問を入れた。すると、ある三重県職員の方は、これに対し、次のように回答した。「問題は、年齢をどうこうするかでは無く、18歳が、国の未来を考える発想ができるかどうか。教育という立場からは、そういう力をつけた若者をつくる努力が必要。」今の情報社会において、知識は年齢によって位置づけられるものではなくなりつつある。であるならば、いかに早い時期から子どもが社会を生きる・動かす知恵をつけることができるかが焦点となり、またこの「高校生議会案」がその第一歩を歩む上で大きな役割を果たすことだろう。