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参議院の動き

参議院70周年記念論文表彰式

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 平和の花

東京都  千代田区立麹町中学校 1年

ナップ・アリエル

1945年8月、地球上にて最大の恐ろしさが世の中を襲った。広島と長崎の人々の故郷を奪った原子爆弾だ。原子雲の下には、黒焦げで泣き叫ぶ無数の命が倒れては消え去っていった。そんな悲惨な戦争の記憶は、私達の社会から急速に失われている。世界には未だに一万発を超える核兵器が残されている。そんな今だからこそ、私達に平和の大切さを教えてくれる教育が必要ではないだろうか。私が国会議員として実現できるのであれば、教育で平和の花の種を広めていきたい。

私達は今のままでも平和に暮らしていける。しかし不安定な社会を迎えており、未来のことは分からない。そのために現在の平和教育を改善するべきだ。現実を考えたら、「今、原爆なんて落とされない」と油断している若者が予想以上の数値を示す。70年間保ち続けた平和をどう守るかが私達にかかっている。

私は昨年の夏、千代田区平和使節団として長崎へ派遣された。長崎ではいろいろな体験をしたが、中でも鮮明に印象に残ったのが永井博士の孫、永井徳三郎さんと話す機会を戴いたことだ。初めて博士のことを知ったのにも関わらず、平和への想いは永井博士によって深められた。

永井博士は、放射線物理療法を長崎医科大学で研究し、やがて医学博士となった。しかし、フィルム不足の状態で実験を行ったため、大量にラジウムの放射線を浴びた。その為、余命3年と宣告され、白血病に罹った。しかし悲劇が続くまま原爆投下を迎えた。爆心地近くの長崎医大にいた博士は、猛烈な爆風に吹き飛ばされ、無数のガラス破片を浴びた。右側頭動脈切断において大量出血しながらも、布を巻くのみで他人の命を救うために専念した。しかし失血により何度も倒れてしまい、遂に僅か2畳の空間の寝たきりの生活を送り始めた。急性原子病が加わり、原爆症、そして右半身の負傷と闘いながらも、苦痛の言葉を一言も漏らさなかった。更に、子供達、そして私達の為に最後まで文学の道を切り開いた。床に伏せたままで数多くの名作を生みだした。そんな永井博士の多くの作品は自身の原子爆弾に対する苦しさを訴えたものが多い。

彼の生き方を知り、私は人生に変化が与えられ、初めて平和について考えた。平和って戦争が無いこと?いや、幸せなこと?考えているうち、平和は普通の日常にあると解釈した。かつての日本では、普通の生活を営むことさえ難しかった。原爆は、家族、そして日常を私達から一瞬で奪い取った。歴史は繰り返されるからこそ、私達の存在や生き方をありがたく受け止めなければいけない。そのために私は現地での体験に基づいた平和教育の必要性を訴える。

2016年を振り返れば、平和に関して多くのニュースを耳にした。その中でも、世界から注目を浴びた出来事として、オバマ大統領の広島訪問、そして安倍総理大臣の真珠湾訪問が挙げられる。アメリカと日本の友好関係も深まり、平和をより強く肌で感じられたばかりだ。アメリカの父と日本人の母を持つ私にとっては特に意義深いニュースだ。しかし、現在学校で行われている平和教育は、一方的に説明を聞いて頭から離れてしまうただの講義だ。それを忘れられないものとするために、彼らのように現地に足を運んで、全身で平和を感じる事が不可欠である。

私自身、平和使節団の一員として長崎に派遣されたが、一日中、活動していたにも関わらず、一風変わった空間での学びは一段と楽しく忘れ難い体験となった。そして、何よりも永井博士のような人物に出会うことができた。彼の貢献は真の平和の花を咲かせた。原子野を『花咲く丘』へと、寄贈された金額で千本桜を長崎中に広めた。長崎市内に残る咲き続ける桜。博士や人々の想いが溢れ、町中を飾っている。長崎には、そこでしか学べない平和を知ることができ、私は今、こうして心から平和を訴えることができる。

更に、帰京後は、報告会を原点とし、人々に長崎での活動で学んだことを伝えた。私が生きていく中、この思いを発信し続けることが自身の役割だ。このような実体験を通じての教育こそが求められていると痛感する。

戦争や原爆のために多くの人々の命が奪われた。けれど、私達は平和の中で生まれ、そして希望に包まれながら成長していくことができる。かつて人々が望んだ生活を今、営むことができる。私が国会議員となったら、若者を被爆地に派遣し、そこでの出会いを伝えていく教育を実現させたい。10年後、20年後。平和の花はいくつ咲くのだろう。