質問主意書

第148回国会(特別会)

質問主意書


質問第六号

護衛艦さわぎり艦内での隊員自殺事件についての調査委員会報告書に関する質問主意書

右の質問主意書を国会法第七十四条によって提出する。

  平成十二年七月五日

福島 瑞穂   


       参議院議長 斎藤 十朗 殿


   護衛艦さわぎり艦内での隊員自殺事件についての調査委員会報告書に関する質問主意書

 一九九九年一一月八日、護衛艦さわぎり艦内で自殺した機関科所属の三等海曹(二一歳、以下「A海曹」という。)の事件に関連して二〇〇〇年五月三〇日に質問主意書を提出し、六月二〇日に答弁書を受領したが、答弁の内容に多くの疑問があり、政府による公正な調査が行われたという確認をすることができなかったので、改めて、以下質問する。

一、答弁書の一は、一一月八日の隊員自殺事故発生時に「さわぎり」がいた地点を明らかにすると「自衛隊の戦術、戦法等が明らかになる」という理由で、これを公表できないとしている。しかし、この答弁では、最初の発表で「土佐沖」という場所をイメージできる表現を使ったことの説明がつかない。地点を明らかにしないのであれば、「太平洋上」などという表現が使われたと思うが、最初の発表があえて場所をイメージできる表現を使ったのはなぜか。

二、陸からの距離について質問したのは、事故発生時には事故者を緊急に陸上医療機関に搬送すべきだと考えるからである。今回の事故でも、直ちに搬送し蘇生機器による蘇生術が施されれば、一命を取りとめたかもしれない。その観点から、本件は搬送でき得たのにしなかったのか、でき得なかったので搬送しなかったのかを確認したかったものである。距離を明らかにすると「戦術、戦法等が明らかになる」という主張は理解しがたいが、事故調査委員会の任務には、事故原因の調査のみでなく、事故対応が適切であったかどうかを調査することも含まれるはずである。そこで改めて質問するが、事故発生当時のさわぎりはA海曹をヘリコプター等で陸上まで運べる位置にあったのか。また、その位置から佐世保まで寄港するのに何時間を要したのか。

三、答弁書の二は、報告書の二ページの(ウ)について答えているが、質問は(ウ)について聞いたものではなく、A海曹が普段から夕食を食べていなかったのか、この日に限り食べていなかったか、そもそもそのような調査を行っているのかを質問したものである。報告書も答弁書も、自殺の直前のA海曹の行動が普段と変わりがなかったとしているが、答弁書の三では「事故者は同月七日の夕食は食べなかったと考えている」と書かれている。夕食をこの日に限って食べていなかったとすれば、普段と同じだったという判断はできないのではないか。

四、答弁書の三ではA海曹の勤務時間と非番について書かれているが、「訓練には参加していない。」としか書かれていない。訓練そのものが行われていなかったのか。行われていたのに参加させていなかったのか。行われていたとすれば、どのような訓練が行われていたのか。

五、答弁書の四が指摘しているように、A海曹は非番のときも自主的に勉強をしていた。このことは報告書の中にも書かれ、遺族等の証言でもうかがうことができる。ところで、この一一月六日から八日にかけての非番のときには、A海曹は何をしていたかを調査委員会は把握しているか。把握しようという調査は行ったのか。調査を行ったのであれば、把握している限り、非番の時間におけるA海曹の行動について示されたい。

六、同様に「いじめ」の当事者と指摘されているP班長、H班長について、この三日間の勤務日程、訓練日程はどのようなものだったか。また両班長について、非番の時間はどのような行動をとっていたか。

七、副長Nは機関科Lとともに右軸室に駆けつけた事実はないということであるが、では副長Nは、いつ、どの時点で軸室に行ったのか。A海曹を動かすよう指示したのは誰で、何時ごろ、その指示を行ったのか。

八、答弁書の七では、機関科Lは「A海曹が自殺するとは思ってもいなかった」としているが、報告書では自殺の直前にA海曹が右軸室でロープを持っているところに遭遇し、まず「なんしよっとや」と言い、「上に上がるぞ」と言って、二人で第二甲板まで上がり、さらに別れたあと再び医務室前でロープを持っているA海曹と出会い、「変な事は考えるなよ」という声をかけている。夕食も、ひょっとしたら朝食も取らず、睡眠もそこそこの人間が、何度もロープを手にして現れれば、ここで「自殺の危険」を考えるのがむしろ当然と思うが、それを思わなかったとする機関科Lや調査委員会の委員における「人の命」に対する感性は極めて麻痺していると言わざるを得ない。この一点だけをとっても、より人権意識の高い、事件の当事者とは別の調査機関による調査がもう一度詳細に行われることが必要と考えるがどうか。

九、機関科Lが一一月九日、遺族に対して、A海曹が「紐を持って今にも首をつろうとしていた」と述べたところは、艦長を含め、この日に遺族の前に整列したすべての隊員が聞いているはずである。ところが答弁書の八では、機関科Lは「御指摘のようなことは語っていない」と述べたとしている。いったい、これはどのような調査に基づいているのか。機関科L一人だけから聞いたのか、艦長を含め複数の人間に確認をしたのか。

一〇、電話連絡訓練においてA海曹が二日間も自宅待機したことについては、答弁書の一〇及び一二において、Wが同訓練の目的をよく理解していなかったためとしているが、ではWはこの訓練において、どこで何時間待機をしたのか。W及びWからの連絡を受けたもう一人であるGは、A海曹と同じように二日間待機することになったのか。もし、そうでなかったとすれば、WとGに待機解除を伝えた者は誰か。その者は、なぜA海曹にはこれを伝えなかったのか。あるいは、二人は解除の連絡を受けずに勝手に待機を終了させたのか。

一一、手帳は、A海曹の遺書あるいは自殺の原因を探る上で重要な手掛かりとなるはずのものである。ところが、答弁書は一三で、調査委員会を含め誰も二冊の手帳に切り取られたページがあることに気付かなかったと述べている。切取り方は極めて巧妙であり、気付かれないように切り取ったことも考えられる。手帳は調査委員会に渡る前に、まず副長N、P班長及びW、そして警務隊の二人の警務官の手に渡ったと書かれているが、それぞれ数分間とされている。そこで、改めて質問するが、二冊の手帳が調査委員会の手に渡ったのは何月何日の何時頃か。手帳の第一発見者は誰で、それは何月何日の何時頃か。その第一発見者の手から、調査委員会の手に渡るまでは何日と何時間か。その間合計数分間、副長N、P班長及びW、そして警務隊の手に渡っていたとして、残る膨大な時間の間、誰がどこで、どのような形でこの手帳を管理していたのか。

一二、そもそも、手帳がなぜ切り取られたか、誰によって切り取られたか、懸命の調査を行おうとする意欲そのものがうかがえない。この手帳の問題も含め、本人の意志を確認するものを何も調べていない状態で、どうして「自殺である」という判断を行い得たのか。誰が、いつ、どのような根拠で「自殺」と判定したのか示されたい。

一三、この事件について、A海曹の妻及びその両親から約四時間半、A海曹の両親等から約二時間半の聞き取りを行ったというが、P班長及びH班長からの聞き取りは何時間か。P班長以外の隊員からの聞き取りは合計何時間か。

一四、答弁書の一六では、「さわぎり」において「ベテランの准海尉をカウンセラーに指名し」、「艦長が苦情受理者として乗員の苦情を受けている」と書いているが、A海曹の両親は別の問題があったときにI分隊長とN機関長に対して手紙を出しているが、返事をもらえなかったという。この二人は、両親からの手紙をどのように扱ったのか。

一五、機関長でさえ「雲の上の人」とA海曹は語っていたという。さらに、その上の艦長が苦情受理者では、隊員が気軽に苦情を持ち込むことができるとは思えない。海上自衛隊においては今でも艦長が苦情受理者に指定されているのか。それでは、苦情受付は全く機能しないと思うが、政府の見解を示されたい。

  右質問する。