質問主意書

第142回国会(常会)

質問主意書


質問第四号

大韓航空機事件の真相究明の過程で明らかになった諸問題に関する質問主意書

右の質問主意書を国会法第七十四条によって提出する。

  平成十年三月十三日

瀬谷 英行   


       参議院議長 斎藤 十朗 殿


   大韓航空機事件の真相究明の過程で明らかになった諸問題に関する質問主意書

 一九八三年(昭和五八年)八月三一日(国際標準時)、定められたR20の飛行コースを約五〇〇キロメートルにもわたり大幅に航路逸脱し、ソ連領空を侵犯して飛行していた大韓航空〇〇七便がサハリン付近でソ連機が発射したミサイルにより撃墜された事件(以下「大韓航空機事件」という)は、日本国政府が発行した旅券を所持する乗客多数が犠牲になった事情を含め、その事件の重大性から当時衆参両院が全会一致で事件の全貌を明らかにすることを政府に求めた大事件であった。
 この大韓航空機事件に関し、遺族、民間航空関係者、ジャーナリスト、教職者、市民運動家、国会議員らによる非政府組織「大韓航空機事件の真相を究明する会」(以下「究明する会」という)は一九八四年(昭和五九年)八月三一日に「声明」を公表した後、今日に至るまで真相究明の活動を続けてきた。私と同僚の田英夫議員はともにこの会の代表理事として、事件の真相究明に関し、継続して努力してきたところである。
 事件発生から約十五年、「究明する会」発足から約十四年を経た今日、国際的に明らかになった諸事実から総合的に判断するならば、大韓航空〇〇七便は事件直後にマスコミの多くが報じた「パイロットの操縦のミスで誤ってソ連領空に迷い込んだもの」では決してなく、某国情報機関の指揮の下に、特定の目的を持って、故意にソ連領空を侵犯したものと判断せざるを得ないのではないだろうか。
 「知らぬは日本政府ばかりなり」という評価は、この事件の発生を日本政府が予め「同盟国」から知らされていなかったという面からだけでなく、多数の日本人乗客が亡くなった事件の経過を傍受していた自衛隊の通信情報が、当時の中曽根総理、後藤田官房長官ら日本政府中枢に伝えられた時刻よりもはるか以前に、日本政府の頭越しにリアル・タイムで米軍三沢基地を経由して、米国政府機関に全て生の情報として提供されていたという、驚くべき事実からもいえることである。そのようなことが独立国において許されてよいものであろうか。仮に、今日においても、日本政府中枢の頭越しに日本の主権を無視して情報が飛びかっているとしたら、極めて重大な問題だと言わざるを得ないのである。
 昨年八月三一日付で、大韓航空機事件発生当時、公安調査庁総務部資料課ソ連班長の職にあった田中賀朗氏が、日本航空の現役ベテラン整備士である杉本茂樹氏(「究明する会」の指導的立場にある理事の一人)の監修の下に三一書房から『大韓航空〇〇七便事件の真相-自衛隊元情報将校が解読したレーガンの戦争-』(以下「甲書」という)を出版し、国の内外から注目を集めている。田中賀朗氏は、ソ連迎撃機とソ連地上基地との交信を傍受したことで知られる陸上幕僚監部調査部調査第二課調査別室東千歳通信所の稚内分遣班(当時の名称は陸幕第二部別室東恵庭通信所稚内分遣班)の班長の職など、自衛隊の情報将校として第一線勤務の経歴を有する人物であることから、甲書の記述内容には高い信憑性があると考えられたからである。また本年三月二日付でテレビ朝日事業局出版部から『21世紀への伝言・法の男・後藤田正晴』(以下「乙書」という)が出版された。後藤田氏は警察庁長官を含む同氏の経歴に加えて、事件当時の内閣官房長官という中曽根内閣の中枢にあってこの事件に対処した人物であること等から、その証言内容には極めて重い意味があると考えられる。
 時あたかも「日米防衛協力のための指針」の見直しの是非が国の内外において大きな問題になっている。新しい「日米防衛協力のための指針」の「III、平素から行う協力」の「1 情報交換及び政策協議」の項を見ると「日米両国政府は、正確な情報及び的確な分析が安全保障の基礎であると認識し、アジア太平洋地域の情報を中心として、双方が関心を有する国際情勢についての情報及び意見の交換を強化するとともに、防衛政策及び軍事態勢についての緊密な協議を継続する」と記されている。日米間における「情報及び意見の交換」を現状以上に、更に「強化する」ことが必要であるか否かを主権者である国民に判断してもらうためには、現在、日米間においてどのような「情報及び意見」がどのような方法において「交換」されているのかという点について、政府は相当程度まで国民に対し、事実を明らかにしなければならないことは明白である。
 しかしながら、大韓航空機事件の真相究明の過程で明らかになったいくつかの事実は、日米間の軍事情報の「交換」の在り方に関し、日本国の主権の尊厳と日本国の独立の確保の観点から見ると、日本政府による米国に対する情報提供の在り方が根本から誤っているのではないかとの強い疑念を持たせるものが少なくなかったので、それらの点が事件後約十五年の歳月を経た今日、すでに日米間において改められ、軍事情報面での日本国の主権、日本国の独立が十全に保証されたシステムになっているのかどうか、国権の最高機関である国会の責任において、全面的に検証する必要があると考えるものである。以上の観点から、以下の疑問点について質問する。

一、軍事情報に関する日本国の主権の確保に関する問題について

 例えば英国が米国の第一級の同盟国であることを疑う人はいないと思われるが、英国が独自に収集した軍事情報を独自に分析し、監理するシステムを確立させた後、英国政府の個別具体的な判断において当該情報の提供が英国の国益にかなうと判断した場合、ある特定の情報を同盟国である米国に提供するケースは独立国間における自然な情報交換の在り方として理解できるところである。
 しかし、仮に英国政府機関が収集した軍事情報が、英国政府の具体的なチェックを経ることなく、生のままで自動的に米国側に提供されてしまうシステムが英国と米国の間に存在するとしたら、英国議会は英国の国益を守る立場から、そのようなシステムの存在を許容する英国政府を許さないものと判断されるのである。
 なぜならば、国の主権、国の独立を放棄したところからは、到底、英国の国益は確保されないだけでなく、英国と米国との間の安定した同盟関係も永続しないことが明白だからである。
 ひるがえって、大韓航空機事件当時の、日本国と米国の間における、軍事情報の提供の在り方はどうであっただろうか。前記乙書によれば、
「NSAは日本が傍受した交信記録を入手していた。稚内の自衛隊が傍受した交信記録は米軍の三沢基地を経て自動的にアメリカにわたるシステムになっていたのである。『日本の傍受したものも米軍三沢基地に入ってたわけですね。みんな入るんです。そのシステムが問題であったわけです。後で考えると。ただし、そのころは、そういうことが問題になるという認識がなかった。なぜそういうことがなかったのか。ご承知のように、日本の防衛のいちばん大事な点というのは、アメリカが日本占領中、朝鮮動乱あるいは平和条約が発効し引き揚げていったその過程で、アメリカが核として残したものを日本がそのまま引き継ぎ、それが基本になっていることです。そのいきさつからアメリカに情報が行くことというのは当然みたいに思っていたんですね』(夏目)
 後藤田はこのことで夏目を厳しく叱責したという。
 『こんなものが生でストレートにいっちゃうとは思わなかった。どっかにクッションがあっていくんだろうと思っていたんです。それがなかった。ある意味では情報管理がまだ確立されていなかったことは否めない。私が後藤田さんに叱られたのはそのことだったとおもいますね』(夏目)
と、大韓航空機事件の直後に、後藤田官房長官が、陸上幕僚監部調査部第二課調査別室東千歳通信所の稚内分遣班の傍受情報が日本政府のチェックを受けることなしに、生の情報として米国側に自動的に提供されていた事実に関し、夏目防衛事務次官を「厳しく叱責した」経過が明記されている。乙書の右記述内容は「究明する会」が独自の方法で取材した事件当時の実情とも合致するものであるので、以下1乃至3の質問に答えることにより、橋本内閣総理大臣の基本的見解及び本件に関する橋本内閣の具体的認識を明らかにされたい。
 なお、事件後、衆議院予算委員会の理事として、大韓航空機事件の真相究明に関し、大出俊衆議院議員(当時)らと共に努力された橋本総理の議員としての行動を知る一人として、大韓航空機事件の真相究明の過程で明らかになった、日本国の軍事情報に関する主権の危機に関し、日米間の真の友好関係を維持する立場に立って、橋本総理の一国を代表する政治家としての明確な答弁を求めたい。

1 橋本内閣の基本方針として、自衛隊を含む日本国の政府機関が収集した軍事・防衛関連情報が生のまま、自動的に米国側に提供されるシステムの存在を好ましいものと考えるか否かを明らかにされたい。
2 大韓航空機事件の直後、当時の後藤田官房長官から、「調別」の稚内における傍受情報が「生のままストレートに」米側に提供されるという、日米間における情報交換の在り方について「厳しく叱責」された当時の夏目防衛事務次官ら防衛当局は、いつ頃の日米協議の場において、右のような情報提供の在り方を改めたのかを明らかにされたい。仮に、右の情報提供のシステムが今日においても改められていない場合、改めることができなかった理由を明らかにされたい。
3 現在、日米間における軍事・防衛関連情報の「交換」が独立国間のそれとして対等の立場で実施されているか否か、橋本総理の権限において全面的な実態調査を行い、日米間の協議の場等を通じて、改めるべきものは全面的に改める努力を行う考えがあるか否か、明らかにされたい。

二、いわゆる「プロジェクト・クレフ」に関する問題について

 大韓航空機事件当時、米国はNSAが稚内の自衛隊基地内に送り込んでいた通信情報部隊(暗号名「プロジェクト・クレフ」)が独自に傍受した情報と、「調別」の東千歳通信所稚内分遣部隊が傍受し自動的に米側に提供された情報の二つの異なる交信記録を入手していたことが、今日においては識者の間では明らかである。前記乙書には、
「アメリカはこうして二つの交信記録を握ったのである。
 『プロジェクト・クレフの存在は知っていましたよ。存在そのものは事件が起こる前から知っていた』(夏目)
 しかし、政府首脳にはその存在を報告していなかった。
 『防衛庁でも、ごくひとにぎりの人しか知らなかった。知らせないようにしてたんです、事実。大臣も次官も知らないでおられた方がいっぱいいるとおもいますね』(夏目)
 アメリカが傍受したもう一つの交信記録。後藤田はこれを知らなかった。事件から六日後、アメリカのカーク・パトリック国連大使は安全保障理事会でアメリカがつかんだ情報を明かさず、日本が傍受した交信記録のテープを五〇分にわたり流したのである。アメリカ側関係者によれば、日本が傍受したテープを公開すれば日本は困った立場になることを十分認識したうえで、あえて公開に踏み切ったのだという。
 アメリカ側はなぜ自分たちが傍受した交信記録を使わなかったのか。当時の防衛庁官房長佐々淳行はこれはアメリカの国家エゴイズムだという。
 『やはり日本が利用されたと。アメリカに対して毅然たる姿勢がなかったということだと思いますよ』(佐々)
 すべての事実を知った後藤田は今、当時を振り返りこう語る。
 『情報のルートが間違っているんでは日本の危機管理体制不足ということになる。官邸に情報が上がってくるのが遅いしね。僕のところに入ったのが午前八時。しかし、事件は午前四時前ですから。そこからひとっ飛びで情報が入ってこなくてはダメだ。防衛庁のルートからは午前一一時まで入らないんだよ。日本の国というものはね、本当の意味で独立しているのかといったような気がしましたね。それから本当に安保条約というのは、このままでいいのだろうか。それについても立ち入った議論をすべき時がもう来ているのではないでしょうかね。果たして日本が仮想敵国としてある国を対象にしながらアメリカと同盟条約をむすぶ必要はあるのか…日米の間はこれから友好条約に変わっていくのが望ましいと思っています』」
と記されている。
 大韓航空機事件当時の内閣官房長官、防衛事務次官、防衛庁官房長らのこうした「証言」は事件から約十五年を経た今日、一層重いものとして私達に語りかけている。また、前記甲書にも「このときも、数名の電子保安群所属の米兵がいた。あえて断定しないが、ソ連防空軍のレーダー・データと〇〇七便迎撃ボイスの傍受をおこなっていたと見られる。」と記されている。
 橋本内閣の責任において、当時の自衛隊稚内基地内にいた日本側関係者を調査の上、先の事項を明らかにされたい。

 1 大韓航空〇〇七便が撃墜されたとされる、昭和五八年九月一日午前三時三八分(日本時間)頃、自衛隊稚内基地内にいた米国側要員は合計何名であったかを明らかにされたい。
2 いわゆる「プロジェクト・クレフ」又は類似の通信情報部隊の要員が一九九七年(平成九年)の実績において、年間何名、延べ何日、日本全国の自衛隊基地内に立ち入ったかを明らかにされたい。
3 橋本内閣の今後の基本方針として、大韓航空機事件直後に日本政府が米側に行った一方的な当時の「調別」情報の提供のような在り方に変えて、米側に対し、対等平等な独立国間における「情報交換」を要求する考えがあるか否かを明らかにされたい。

三、大韓航空機事件当時、事件現場に密着して通信情報収集にあたっていた自衛隊幹部について

 政府は三沢の溝口博三北部防空管制群司令、稚内の村田邦治第十八警戒群司令、恵良俊美第十八警戒群副司令ら、大韓航空機事件当時のレーダー情報に関与した空幕幹部に関する情報を開示しながら、通信情報に関与した陸幕「調別」幹部に関する情報を一切開示していないが、事件から約十五年を経過した今日の政府の姿勢としては、到底納得することができない。
 昭和五八年九月一日(日本時間)現在、左記1乃至4の職にあった者に関し、(1)職名、(2)階級、(3)氏名、(4)生年月日、(5)自衛隊退官時の職名・階級・退官年月日を明らかにされたい。

1 陸上幕僚監部調査部第二課調査別室東千歳通信所を運用する部隊の長
2 右部隊の長の次位の地位にあった者
3 右部隊から稚内に派遣された部隊の長
4 右部隊から根室に派遣された部隊の長
 仮に通信情報の秘密を理由に答弁を拒む場合、レーダー情報と比較して、通信情報が事件から約十五年後において特別に秘密性を有する根拠を明らかにされたい。

四、第十八警戒群幹部の事件当時の実態について

 「究明する会」が大韓航空機事件当時の第十八警戒群の運用にあたっていた自衛隊幹部の実態について調査したところによれば、村田邦治司令らは前夜から近くの島へ宴会に出かけていて稚内基地を留守にしていたこと及び稚内基地のレーダーは定期点検中のため使用することができず、移動警戒隊のレーダーが臨時に使用されていた等の事実が判明したので、左記1乃至2の者に関し、(1)職名、(2)階級、(3)氏名、(4)生年月日、(5)自衛隊退官時の職名・階級・退官年月日を明らかにされたい。

1 昭和五八年九月一日午前三時当時、第十八警戒群で、稚内基地内に在籍していた自衛官で最高位だった者
2 右当時、稚内基地内に勤務していた移動警戒隊の長

  右質問する。