質問主意書

第108回国会(常会)

質問主意書


質問第六号

朝鮮戦争への日本人のかかわりに関する質問主意書

右の質問主意書を国会法第七十四条によつて提出する。

  昭和六十二年二月二十一日

吉岡 吉典   


       参議院議長 藤田 正明 殿


   朝鮮戦争への日本人のかかわりに関する質問主意書

 戦後、日本がアジアでの戦争にどのような形でかかわりあつてきたかを正確にしておくことは、日本とアジアの平和と安全を考えるうえで必要なことである。
 日本は、直接戦場にはならなかつたものの朝鮮戦争とベトナム戦争という戦後最大の二つの戦争で、日本なしにはこの戦争は遂行できなかつたといわれるほどの役割を果たした。
 とくに朝鮮戦争では、日本は、朝鮮出撃の基地となつたほか、多数の日本人が直接戦場に派遣させられ朝鮮戦争に協力させられて、すくなからぬ犠牲者も出ている。
 しかるにその実態はいままであきらかになつていない。そこで、朝鮮戦争のさい、「国連軍」協力のため、日本から朝鮮戦争に派遣された日本人の実態について以下質問する。

一 掃海部隊の参戦について

 朝鮮戦争にさいして、戦後米占領軍によつて温存された、海上保安庁所属の旧日本海軍掃海部隊千二百名が機雷掃海のため参戦した。
 これに関し以下の質問に答えられたい。

1 元在日米海軍司令部政治顧問であり、現在米国防総省日本課長の職にある、ジェームス・アワー氏の博士論文の邦訳である『よみがえる日本海軍(上)』によると「一九五〇年一〇月二日から一二月一二日までの間に、四六隻の日本掃海艇、大型試航船(水圧機雷掃海用)および一二〇〇名の旧海軍軍人は元山、群山、仁川、海城、鎮南浦の各掃海に従事して、三二七キロメートルの水道と六〇七平方マイル以上の泊地を掃海した。」とある。
 一方、『海上保安庁三十年史』は、「掃海艇二十隻、巡視船四隻及び試航船一隻」によつて「四個の掃海隊を編成し」「第七艦隊司令官の命令に従つて行動」させたと記している。
 正確には何隻、何人がどういう形で参戦したのか明らかにされたい。
2 ジェームズ・アワー氏の前記論文『よみがえる日本海軍(上)』によるとその経過はつぎのようにえがかれている。
 「バーク提督は、アメリカ海軍が相当の障害を排除しうる掃海部隊を持つていないこと、とくに北朝鮮海域に進入すれば複雑なソビエト製感応機雷に遭遇する可能性について、よく知つていた。この感応機雷を処理できる、高い練度を持つ大きな掃海部隊がたつた一つあつた。それは海上保安庁の掃海部隊で、日本内地の沿岸航路や瀬戸内海の掃海作業に当時なお従事していた。元山上陸作戦実施がはつきりと決定されたあとで、バークは大久保長官を極東アメリカ海軍部隊司令部作戦室に呼んで、アメリカ軍の元山上陸作戦の必要性を説明し、同海域にソビエト製機雷が敷設されているかもしれない点について、彼が懸念しているところを大久保に伝えた。」「バークは大久保に対して日本の掃海艇を対馬海峡地域に集合させて、元山沖の掃海を援助し仁川の敷設機雷の後始末を支援するよう要請した。大久保は、この要請を受け入れる決定は海上保安庁長官としては余りにも重大すぎるので、決定を下してもらうために吉田首相に会つて話を伝えることにしよう、と答えた。」「掃海作業は戦闘であり、海上保安庁法の第二五条には、海上保安庁は非軍事的部隊である、と明記されてあつた。旧日本海軍軍人に対して、アメリカ軍の支援作戦に彼らの生命を賭けさせることは、きわめて説明困難であつた。日本は当時なお占領下にあり、総司令部の支配下にあつた。吉田首相は大久保海上保安庁長官に対して、同庁の掃海艇をアメリカ海軍の希望どおりに派遣するよう伝えた。
 当時、海上保安庁航路啓開本部長であつた田村久三元大佐は、一九五〇年一〇月二日、彼が指揮官となつて朝鮮派遣掃海部隊を編成した。隊員の中には朝鮮行きをためらう者もあつたけれども、給与を二倍にすると約束され、田村、バークおよび三田--当時警備救難監--から強い激励の言葉を与えられたのちには、朝鮮行きをどうしても嫌だという者はいなかつた。一九五〇年一〇月六日、極東アメリカ海軍部隊司令官ジョイ中将は運輸省に対して、連合軍最高司令官の公式承認書を送り、極東アメリカ海軍部隊司令官の命令どおりに掃海艇二〇隻を集合させるよう命じ、掃海艇には朝鮮海域にあるときはただ国際信号旗のE旗だけを掲げるよう指示し、また(隊員たちには)二倍の給与を支給するよう命じた。」
 こうして日本の掃海部隊は同年十二月十五日まで朝鮮戦争に参戦したと記録されている。
 以上の経過もふくめて、参戦に至るまでの事実関係を明確にされたい。また派遣された掃海部隊の地位、隊員の身分はどういうものだつたのか。
3 ジェームス・アワー氏によれば、この掃海部隊の朝鮮戦争参戦は、米軍の要請をうけて日本政府が派遣を伝え、米軍の承認をえておこなつたという形になつている。日本政府が朝鮮戦争に参戦する掃海部隊を派遣したことは、海上保安庁法および日本国憲法に違反するものであることは明白である。政府はこれを今日、法的にどう説明するのか。
4 この掃海参戦による死傷者についてジェームス・アワー氏の前記論文ではつぎのように記されている。
 「二隻の掃海艇が沈没-一隻は元山沖で掃海中触雷、他の一隻は群山で座礁-し、掃海艇が触雷沈没する際に日本水兵一人が死亡し、八人が負傷した。
 大久保海上保安庁長官は、日本掃海艇が朝鮮海域にある間はほとんど毎日のように、吉田首相に、同海域の掃海について簡単に報告した。日本政府は戦死者や戦傷者に対する補償についての立法措置を講じていなかつたので、吉田首相と大久保長官は日本掃海隊員に死傷者が生じた場合のことを心配していた。大久保はこの件についてバークに話していた。そして日本掃海隊員が戦死したとき総司令部公安局の者がその戦死者の家庭を弔問し、その父親に補償金を支払つた。」
 この記述のとおり死傷者が出たのか。
 戦死者への補償金はどんな法的根拠にもとづいて出されたか。

二 占領軍労働者による兵員物資輸送について

1 調達庁が昭和三十一年に発行した『占領軍調達史』によると「朝鮮作戦向け兵器弾薬等軍需品その他の積載、輸送、警備、附帯事務等の兵站補給作業に従事したものも相当数にのぼつたと推定される。一方朝鮮海域において勤務する船員や特殊港湾荷役等に従事する者に対しては、勤務の特殊性、危険性にてらして、SPA(特別調達庁-引用者注)は連合国軍関係船員給与規程の外に新たに連合国関係特殊港湾荷役者等給与規程を制定し、昭和二十五年七月二日以降従来の給与のほかに特別の手当を支給した」とある。このように、朝鮮海域にまで出動して米軍の輸送作戦に参加したものも多数あつた。朝鮮戦争中、朝鮮海域にまで出動して半島の輸送に参加した日本人の人員はどれだけだつたか。また、全面占領期と講和後にわけると何人ずつになるか。
 児島譲氏は、その著書『朝鮮戦争』(第三巻)で、仁川上陸作戦に際し、沖仲仕だけで三千九百三十六人が参加したと書いているが事実か。
2 『占領軍調達史』によると、、昭和二十六年一月までのあいだにこれらの労働者のなかから三百八十一名の死傷者、つまり戦死者、戦傷者がでている。『占領軍調達史』によるとつぎのとおりである。

(a) 特殊港湾荷役者=業務上死亡-一名、業務上疾病-七十九名、その他二十一名、(うち死亡者三名をふくむ)。計-百一名。
(b) 特殊船員=業務上死亡-二十二名、業務上疾病-二十名、私傷死-四名、私傷病-二百八十名。計-二百五十四名(原文のまま-引用者注)。
(c) その他朝鮮海域等において特殊輸送業務に従事中死亡した者-二十六名(港湾荷役-四名、船員-二十二名)。
 政府としてこれを確認できるか。

3 朝鮮海域での輸送は、講和条約発効後はどうなつたか。

三 各種労働者の韓国派遣について

 日本人労働者は海上輸送だけでなく、陸上での兵器の整備、修理、通信関係業務のために、PD(調達)工場、LR(役務調達)工場からの出張という形で韓国にも送られた。鉄道専門員も朝鮮に渡つて戦争に協力させられた。
 その実態をあきらかにされたい。また、これら労働者の戦死傷等被害の実態もあわせてあきらかにされたい。

四 従軍看護婦の召集について

 朝鮮戦争には日赤看護婦も「国連軍」看護婦として召集された。昭和二十六年九月二十六日の日赤第五十六回通常総会で島津忠承社長は「二十五年からはじまつた朝鮮事変にたいして、日赤看護婦の派遣要求があつたので本社はこれに全面的に協力し、九州地方の各支部から第一次五十四人、第二次二十五人、第三次十七人を交替派遣し、現在六十三人が国連軍病院に勤務いたしております」と演説している。
 日赤看護婦韓国派遣の実態(派遣期間、人数など)と地位をあきらかにされたい。またその被害の状況もあきらかにされたい。

五 その他の戦死者について

 昭和二十七年十一月十三日付け朝日新聞は、政府が、日米合同委員会を通じ、米国にたいし米軍従軍日本人の戦死確認と見舞金の支払いを要求した旨報じている。このような政府からの要求の事例、米側の回答の状況についてあきらかにされたい。

六 朝鮮戦争における日本人戦死傷者の全貌について

 『占領軍調達史』によれば、わずか半年間にPD関係だけでも五十二名の戦死者があつた。朝鮮戦争全期間中のPD関係以外も含めた日本人の戦死傷者はどれだけになるのか、またその弔慰金の支払い状況はどうなつているのか全貌をあきらかにされたい。

七 在日韓国人義勇兵について

 朝鮮戦争勃発とともに在日韓国人青年、学生の参戦志願者が、国連軍に編入されて参戦、仁川上陸作戦に参加し、また各戦線に参加した。これは韓国人とはいえ日本に在住する外国人であり、日本と無関係の問題ではない。
 そこでたずねる。

1 在日韓国人志願兵は七百二十五名におよび、六十一名が戦死したとの記録もあるが、その規模および戦死者は何人か。参戦の期間、戦後再入国したかどうかもあわせてあきらかにされたい。
2 この在日韓国人義勇兵はどんな法的根拠と手続で出国、参戦し、再入国したか。
3 韓国駐日代表部が「民団」に通達して、米第八軍に志願し、朝霞の米軍キャンプに入隊したとの記録があるが、日本政府は、これらに了承をあたえていたのか。

八 このさいあわせて、朝鮮戦争中に国連軍の名の米軍によつて朝鮮への出撃基地として使用された日本の基地のリストをあきらかにされたい。

  右質問する。