質問主意書

第210回国会(臨時会)

質問主意書

質問第六二号

杉原千畝元在カナウス日本国領事館副領事の名誉回復に関する質問主意書

右の質問主意書を国会法第七十四条によって提出する。

  令和四年十二月八日

鈴木 宗男


       参議院議長 尾辻 秀久 殿



   杉原千畝元在カナウス日本国領事館副領事の名誉回復に関する質問主意書

一 外交記録は国民共有の知的資源であり、原則として作成から三十年以上が経過した外交記録は外交史料館において公開していると承知している。本年十二月二十一日に公開される外交文書に杉原千畝氏の名誉回復に関する資料が含まれているのか明らかにされたい。

二 杉原千畝記念館のホームページの「千畝の名誉復権」の欄に、詳細が掲載されているが、政府の認識如何。

三 平成十二年十月十日外交史料館における「杉原千畝氏 顕彰プレート除幕式」で、河野洋平外務大臣(当時)が出席し、杉原千畝氏の業績を称え、顕彰プレートを設置したと承知している。杉原千畝氏の顕彰プレート設置に至るまでの詳細な経緯を明らかにされたい。

四 杉原千畝氏顕彰プレート除幕式で、河野洋平外務大臣(当時)が「これまでに外務省と故杉原氏の御家族の皆様との間で、色々御無礼があったこと、御名誉にかかわる意思の疎通が欠けていた点を、外務大臣として、この機会に心からお詫び申しあげたいと存じます」と述べているが、外務省として、どのような無礼、名誉にかかわる意思疎通に欠けていた点があると認識しているか、政府の見解如何。

五 外務省飯倉公館で、杉原千畝氏の幸子夫人、ご長男の弘樹さんに、外務省として杉原千畝氏のご功績を称え、外務省とご家族との間で意思疎通に欠けていた点を謝罪した日が平成三年十月三日である。当時、私は外務政務次官として杉原氏のご家族と面会したが、外務省は杉原氏の名誉回復に消極的であった。なぜ消極的であったのか、政府の見解如何。

六 平成四年三月十一日の衆議院予算委員会第二分科会議で、草川分科員から「第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの迫害を逃れてポーランドからリトアニアに脱出をしてきましたユダヤ人に、日本通過の査証を日本国政府の命令に反して発給を続け、そして六千人のユダヤ人の命を救った旧リトアニア領事館領事代理杉原千畝氏の名誉回復について、この際外務大臣の見解を求めたいと思います。一九四〇年、ナチス・ドイツのポーランド侵攻で多くのユダヤ人がリトアニアなどバルト三国に殺到をし、日本を経由して米国などへ脱出するためビザの発給を求めていたときの話であります。当時リトアニア駐在の杉原副領事は、再三にわたってビザ発給の許可を日本政府に請訓をするわけですけれども、拒否をされたようであります。日本は日独防共協定を結び、ドイツとは同盟関係にあったからだと言われております。苦しんだ末、杉原副領事は独断でビザ発給に踏み切り、転勤命令が繰り返し伝えられる中、リトアニアを出国する出発ぎりぎりまで、列車にまで押しかけるユダヤ人の方々にその列車の中でビザを書き続け、六千人の命を救ったと言われています。私たちは、つい最近までこの人道的な行為を知らずにきたことを大変恥ずかしく思っております。終戦後ソ連での抑留から帰国をされました杉原氏は、外務省に復職を願いますけれども、昭和二十二年の人員整理ということで退官を強いられました。独断によるビザ発給は本国政府の訓令違反とされたと言えます。杉原氏本人も家族も、本省の意向に反してピザを発給した責任を問われたとの思いを抱き続け、四十四年間外務省関係者との交流を一切絶っていらっしゃいました。昨年の十月、鈴木宗男外務政務次官がリトアニアとの外交関係樹立を機会にこの問題を取り上げられ、飯倉公館で御家族に謝罪をされたと聞いております。しかし、その席に外務大臣も外務省の局長も同席をされていないという対応をした、大変こういう対応に私は不満であります。この際、外務省は正式に謝罪をし、この方を顕彰すべきだと思うんですが、大臣の見解を問いたいと思います。」と質問され、渡辺美智雄外務大臣は、「これは昔の古い話なので記録以外には調べようがないんですが、杉原さんが訓令違反で処分されたという記録はどこにもない。それから、そういうような査証を発行したのは十五年ですが、その後でプラハの総領事館あるいはケーニヒスベルクの領事館、ルーマニア公館等を七年間勤務してきた。だから、七年間外務省にずっとおるわけですから、処分をされたわけではないし、二十二年には約三分の一、外務省の人員の三分の一が解雇されたそうです。終戦直後の話ですから、その三分の一の中に入ったということは事実でございますが、特に不名誉な話ということは私は全く聞いておりません。それから、鈴木次官がそういうことであられたということは、私は今初めてここで聞きました。」と答弁された。草川分科員は引き続き、「外務省、それは大変おかしいので、きょうはこのことを予告してあるわけでありますし、随分多くの新聞で杉原元リトアニア副領事四十四年ぶり名誉回復、不本意な退官、外務省、遺族に謝罪、随分いろいろな新聞に出ているのですよ。それを大臣が知らないというのは外務省の対応が非常にまずいと思うのですが、その点はどうですか。」と質問され、兵藤政府委員は「仰せのお話でございますけれども、若干補足させていただきますれば、例えば杉原氏は後刻叙勲も受けておられるわけでございます。たしか勲五等瑞宝章という勲章を受けておられる。このことからいたしましても、先生御指摘の訓令違反があったのでやめさせられたということではなかったのだろうというふうに私ども拝察をいたしております。それからなお、御指摘の鈴木政務次官が外務省を代表されておわびしたということでございますけれども、中山外務大臣御在職中のことでございましたけれども、鈴木政務次官がバルト三国にまさに歴史的な外交関係を樹立する任務を帯びて立たれるという直前にこの杉原副領事のお話を聞かれて、政務次官御自身も大変に感激をされ、ビリニュスに、あるいはその当時はカウナスでございましたけれども、スギハラ通りというものができたという話も聞かれて、ぜひ未亡人にお会いして自分の気持ちを伝えたいというお話もございました結果そういうことが実現をいたしました。なおその前にも、例えば五月でございましたか、中山外務大臣がイスラエルに外務大臣として正式に訪問をされましたときにも、中山外務大臣から公式の場で、これはイスラエルにおける発言でございましたけれども、日本国民の一人として人道に基づく杉原副領事の判断と行動を深く誇りにするという発言を外務大臣としてしておられることも、先生御承知のとおりでございます。」と述べられた。草川分科員は「じゃ、渡辺外務大臣は今の答弁を聞かれまして、杉原氏の名誉回復というのですか、本人を初め遺族の方々は私が先ほどるる説明をしたようなお気持ちを持ってみえたわけでありますから、また政務次官もそういう意向を体して去年お会いになられた、こういうことでありますので、改めて渡辺外務大臣としてどのような御見解が、意見を賜りたいと思います。」と質問されると、渡辺美智雄外務大臣は「私は、その事態をよく見て人道的な見地からそれだけの御苦労をして出国をさせたということは、やはりすばらしかったなと、過去を振り返ってそのようなたたえたい気持ちであります。」と答弁されている。

 当時、私が外務政務次官で、佐藤嘉恭官房長に杉原氏の名誉回復を相談したところ、「名誉回復は必要ないんです」、「当時、日本は戦争に負け、外務省も職員の三分の一をリストラした。その一環で杉原さんは外務省を辞めた。杉原さんが何か責任を取ってクビになったということではないので、そっとしておくのが一番ですよ」と言われ、私は、「本人は例の件で、当時の岡崎外務事務次官から辞めてもらうと言われたという認識で外務省を去った。私はご遺族からもその時に聞いている。今、世界が杉原さんを評価しているのに、何で先輩をしっかりと正しい評価をしないのか」と話した。名誉回復に向けて佐藤官房長と三日間話したところ、三日目に官房長が「鈴木政務次官の判断にお任せします」と発言された。その結果、飯倉公館で幸子夫人、ご長男の弘樹さんと面会し、杉原氏への名誉回復が実現したのである。

 こうした経緯があるにもかかわらず、なぜ、渡辺美智雄外務大臣は事実でない答弁を行ったのか、政府の見解如何。また、杉原千畝氏の名誉回復に至るまでの詳細を明らかにされたい。

 さらに、鈴木宗男外務政務次官と佐藤嘉恭官房長との当時のやり取りが記録として残されているか、政府の認識如何。

七 平成四年三月十一日の予算委員会第二分科会議で、兵藤政府委員が「中山外務大臣御在職中のことでございましたけれども、鈴木政務次官がバルト三国にまさに歴史的な外交関係を樹立する任務を帯びて立たれるという直前にこの杉原副領事のお話を聞かれて、政務次官御自身も大変に感激をされ、ビリニュスに、あるいはその当時はカウナスでございましたけれども、スギハラ通りというものができたという話も聞かれて、ぜひ未亡人にお会いして自分の気持ちを伝えたいというお話もございました結果そういうことが実現をいたしました。」と述べている。

 当時、外務政務次官だった私がバルト三国を訪問した際、ランズベルギス・リトアニア共和国最高会議議長に、「何か杉原千畝氏の記念になるものをつくってほしい」と懇願したところ、ランズベルギス最高会議議長が、スギハラ通りをつくったのである。

 スギハラ通りに関し、兵藤長雄政府委員は事実と異なる答弁をされているが、スギハラ通りに対する政府の認識如何。また、スギハラ通りができるまでの詳細な経緯を明らかにされたい。

  右質問する。