質問主意書

第189回国会(常会)

質問主意書


質問第一九〇号

昭和四十七年の政府見解における接続詞に関する質問主意書

右の質問主意書を国会法第七十四条によって提出する。

  平成二十七年六月二十九日

中西 健治   


       参議院議長 山崎 正昭 殿



   昭和四十七年の政府見解における接続詞に関する質問主意書

 政府は、平成二十七年六月九日の「新三要件の従前の憲法解釈との論理的整合性等について」において、「国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」(平成二十六年七月一日閣議決定)で示された「武力の行使」の三要件(いわゆる新三要件)は、昭和四十七年十月十四日に参議院決算委員会へ政府が提出した「集団的自衛権と憲法との関係」で示された政府見解(以下「昭和四十七年の政府見解」という。)の基本的な論理を維持したものである、と主張する。
 政府が、「新三要件の従前の憲法解釈との論理的整合性等について」において引用する昭和四十七年の政府見解は、以下のとおりである。
 ①憲法は、第九条において、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているが、前文において「全世界の国民が・・・・平和のうちに生存する権利を有する」ことを確認し、また、第一三条において「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、・・・・国政の上で、最大の尊重を必要とする」旨を定めていることからも、わが国がみずからの存立を全うし国民が平和のうちに生存することまでも放棄していないことは明らかであって、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない(以下「①の論理」という。)。
 ②しかしながら、だからといって、平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであって、それは、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである(以下「②の論理」という。)。
 ③そうだとすれば、わが憲法の下で、武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、したがって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない(以下「③の論理」という。)。
 そして、私が本年六月十八日に提出した「昭和四十七年の政府見解における「基本的論理」に関する質問主意書」(第百八十九回国会質問第一七一号)で、③の論理における「したがって」という接続詞は、前の部分の命題から後の部分の命題を論理的に導く流れを表すものか、と尋ねたところ、本年六月二十六日の政府答弁書(内閣参質一八九第一七一号。以下「本件答弁書」という。)において、「御指摘の③の部分の「したがつて」という文言は、この結論の部分において、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」と解する以上、これと同義のものとして、「他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない」という関係にあることを表しているものと解される。」との答弁がなされた。
 しかし、「したがって」という接続詞は、「前の条件によって順当にあとの事柄が起こることを表す」接続詞であり(デジタル大辞泉より)、本件答弁書が言及するような同義のものを導く接続詞とは解されない。仮に、同義のものを導くというのであれば、「つまり」あるいは「すなわち」といった接続詞が用いられるはずであり、「したがって」という接続詞を用いることは本件答弁書の認識と矛盾するものといえる。
 加えて、本件答弁書のような接続詞の読み方は、次の政府答弁とも矛盾を生ずるものである。
 政府は、③の「そうだとすれば」という接続詞の解釈について、「②の部分では「外国の武力攻撃」とだけ記述されているということで、やはりその結論のところに至るまでの基本論理としては、そこのところで既にその我が国に対する武力攻撃に限るという前提に立っているならば、これはもう先に結論を述べてしまっているわけで、③の部分は「そうだとすれば、」にはならないはずであるということでございます。」(平成二十七年六月十一日の参議院外交防衛委員会における横畠裕介内閣法制局長官の答弁)及び「端的に、②の部分の外国の武力攻撃がなぜ我が国に対する武力攻撃に限られないのかというお尋ねでございますけれども、そこで限るとしてしまうと、あえて結論として、③、すなわち「そうだとすれば、」という結論に至らない。③のところでまさに、我が国に対する急迫不正の侵害に対処する場合に限られるということで、そこで初めて我が国に対するということが出てくるということでございます。」(平成二十七年六月二十六日の衆議院我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会における横畠裕介内閣法制局長官の答弁)と答弁している。
 これらの政府答弁は、仮に②の論理における「外国の武力攻撃」を我が国に対する武力攻撃に限定して捉えるのであれば、②の論理の段階で憲法上許容される自衛権の行使は個別的自衛権に限られることとなるので、③の論理は②の論理と同じ内容を述べていることになり、③の冒頭に「そうだとすれば」という接続詞を用いることにはならないはずである、という意を表すものと理解される。
 しかし、③の論理の「したがって」については、文言にこだわらず、「つまり」あるいは「すなわち」のような同義のものを導く接続詞として捉えるのに対して、「そうだとすれば」については、文言にこだわり、前後における同義の関係を否定するような接続詞として捉えるのは、ダブルスタンダードの誹りを免れないものであり、昭和四十七年の政府見解の恣意的な解釈を許すことになりかねない。
 以下、質問する。

一 政府は、③の論理における「したがって」という接続詞を、「つまり」あるいは「すなわち」という接続詞へ訂正するべきではないか。仮に訂正を行わないのであれば、その理由を明らかにされたい。

二 ③の論理における「そうだとすれば」という接続詞を、前後の文意が同義の関係にあることを表す接続詞として読むことは可能か。仮にこのような読み方が不可能であるとすれば、「したがって」については、同義の関係にあることを表す接続詞と読む一方で、「そうだとすれば」についてはそのような接続詞と読むことができない理由を明らかにされたい。

三 ③の論理の接続詞の解釈に当たって、「したがって」については、文言にこだわらず、同義のものを導く接続詞として捉える一方、「そうだとすれば」については、文言にこだわり、前後における同義の関係を否定するような接続詞として捉えるのは、接続詞の解釈として平仄が合わないのではないか。仮に平仄が合うと解するのであれば、これらの接続詞の解釈の相違の整合性について、政府の見解を明らかにされたい。

  右質問する。