質問主意書

第173回国会(臨時会)

質問主意書


質問第七九号

サハリン(旧樺太)少数民族戦没者の戦後補償に関する質問主意書

右の質問主意書を国会法第七十四条によって提出する。

  平成二十一年十一月三十日

紙 智子   


       参議院議長 江田 五月 殿



   サハリン(旧樺太)少数民族戦没者の戦後補償に関する質問主意書

 サハリン(旧樺太)少数民族戦没者の戦後補償問題について、第一六九回通常国会に質問主意書を提出(平成二十年四月二十二日)し、福田康夫内閣総理大臣(当時)に政府の見解を求めたが、質問の論点を曖昧にする答弁に終始していた。
 民主党は戦後補償問題について、政策集で積極的な姿勢を示しているので、新政権に対し、改めて質問主意書を提出する。

一 「サハリン少数民族の戦後補償」問題の基本的な政府認識について

 一九七六年五月十三日の参議院内閣委員会(第七七回国会)における小笠原貞子参議院議員(日本共産党)の質問以来、三十年以上たっている。政府からは、福田康夫内閣総理大臣の答弁書(内閣参質一六九第一一二号、平成二十年四月三十日)を含め、三十三年前の政府の姿勢と同様、言い訳の繰り返しを聞かされてきた。「……深甚なる御同情を申し上げているところ」(同委員会における植木光教国務大臣(当時)の答弁)から一歩も前に踏み出さないままである。
 同委員会における小笠原議員と植木国務大臣のやりとりは次のとおりである。
 小笠原議員がウィルタ(当時の呼称オロッコ)の北川源太郎氏(独身、五十一歳)というシベリア抑留引揚者の実例を挙げ、「侵略戦争の犠牲者が何の報いもなく、(中略)放置されて苦しめられている。(中略)全く弊履のごとく捨て」られている事実について、政府の見解をただしている。これに対し、植木国務大臣は「北川源太郎さんにつきましては、私は昨年、戦争中及び戦後大変な御苦労をせられましたことを直接お聞きをいたしまして、戦時中は陸軍の特務機関要員として勤務をし、また戦後はソ連の軍法会議においてスパイ容疑によって八年の刑に処せられた。自来、昭和三十年に帰国されますまでの約十年間、数々の御苦労をなされたことは承知いたしておるのでございまして、私どもといたしましても、その御苦労には深甚なる御同情を申し上げているところでございます。」と答えている。
 この質問と答弁については、児玉健次衆議院議員(日本共産党)が同院厚生委員会(第一四七国会・会議録第五号)で、「私は、大臣の注意を喚起したいのですが、当時の植木光教総務長官の、深甚な御同情を申し上げるといった次元の問題ではないと考えますね。同情という言葉は、この場合適切ではありません」と述べ、少数民族の戦死者、シベリア抑留中の病死者の援護法適用の対象について質問している。
 児玉議員の質問に至るまでも、当事者と遺族の多くが死没・離散を余儀なくされている。「いつまで待たせるのか」という、かなしい、切実な思いから、遺族らは来日し、政府への要請をおこなっている。
1 サハリン遺族会は、ウィルタの女性キタジマ・リューバとニブヒの女性キム・ユンシンの代表二人が来日し、一九九五年三月八日に高崎裕子参議院議員の紹介で五十嵐広三官房長官(当時)にたいし死没者名簿等を手渡しているが、これら名簿や資料の調査をされたのかどうか、及び手渡した名簿について政府の基本的な見解を示されたい。
2 国内の遺族会を代表してウィルタの女性(春日部市在住)が菅直人厚生大臣(当時)宛の要請書(一九九六年五月十三日)を持って訪ねている(当日の菅大臣は、薬害エイズ問題処理で不在)。要請書は「サハリン戦没者遺族会の要請である『合同慰霊碑』の建立について早期に実現されたい」という内容である。
 一九九五年三月にポロナイスク市(旧敷香町)より、代表二人が国会を訪れ、戦後補償を求める「遺族の声」を伝えた。五十嵐官房長官に伝えた「遺族の声」は、「日本の方々はよく話を聞いてくれます。私たち遺族も日本に移住している遺族も高齢です。私たちは待ちます。だけどももう限界です。この気持ちわかってください。一度、タライカの原野に立つ『戦没者慰霊碑』をみてください。私たち兄弟の声を聞いてください。せめて網走の『静眠の碑』を見て下さい」(キム・ユンシン)というものであった。
 この声は今もかわっていない。遺族に対し、これまで政府の回答がないこと、及び「遺族の声」についての政府の見解を明らかにされたい。

二 平成二十年四月三十日の政府答弁書(内閣参質一六九第一一二号)について

1 答弁書一の1について
 「お尋ねの民族名については把握しておらず、また、お尋ねの氏名を明らかにすることは、個人の権利利益を害するおそれがあることから、答弁を差し控えたい」と答えている。名誉回復者の名簿(B・ポドペチニコフ作成)を承知していながら、「個人の権利利益を害する」ことを口実に答弁を避け、加えて少数民族の旧日本軍従軍について、「それを記録した資料の存在を含め、調査を実施したことはない」と答えるなど、この問題に対する政府の調査姿勢が問われている。
 提供した資料の調査に再度着手し、資料に基づく調査結果を明らかにされたい。もし「答弁を差し控える」理由があるとすれば、その根拠となる法令、規則などの条項を示されたい。
2 答弁書一の2について
 「遺族年金等を受給していた者が複数名いることを把握している」との答弁であるが、複数名とは何名で民族名はなにか、さらにその氏名を明らかにされたい。
3 答弁書一の3について
 少数民族の「旧日本軍従軍について、それを記録した資料」として、児玉議員が二〇〇〇年三月の国会質問で取り上げた昭和十九年の「樺太庁の傭人料費目予算要求書」、その記述にある「対日諜者ハ三十八名……諜者ノ殆ンドガ土人」(ウィルタ)を紹介、その事実を裏付ける鈴木康生元樺太師団参謀長の著作「樺太防衛の思い出・最終の総合報告」によるツンドラ作戦等、具体例をあげている。調査資料を提供して質問しても、「調査を実施したことはない」では答弁になっていない。質問資料に基づく調査結果を明らかにされたい。
4 答弁書二の1について
 答弁書では、「「サハリン先住民族及びその他の北方民族被抑圧者名簿」と題する名簿の内容」、また「ポロナイスク地区の(中略)「名誉未回復者」三十三名が記載されていること」を承知していると答えている。
 前者の資料はロシアの歴史学者B・ポドペチニコフ作成・公表の名簿(一九九九Ⅰ、九九頁~一二三頁に記載)だが、この資料記載の四十名について「承知している」とすれば、氏名、生年、民族名簿が記載されている。サハリン州の『地域広報』も公表している。氏名、民族名も判るはずである。その後、四十名の被抑圧者について、ポロナイスク関係の被抑圧者四十名中、二十六名が挙げられ、十三名が除外されていたことが判明している。
 十三名はいずれも戦犯者で、ロシア共和国刑法第五十六条六項、四項のスパイ罪、スパイ幇助罪を適用され、シベリアの強制労働に服し、死没したり、刑期満了後、サハリンへ帰国、日本に移住したりしている。四十名中、ほとんど死没している。これら四十名について、従軍、徴用の事実関係などを政府として再調査されたい。
 父、兄に戦犯者の汚名をきせられ、墓も建てられないでいる遺族も多い。その中には三人の兄をシベリアでなくした妹が独りサハリンで「ヤスクニに逝ってカミサマになった兄」の帰国を信じて待つ八十歳を過ぎたヤマカワ・トミコの姿がある。「わしらの戦後を早く終わらせてほしい」。その遺族の声に、どう答えるのか。
 一人ひとりの戦没者と遺族の声を大切にして、政府のサハリン少数民族の戦後処理に対する姿勢を明らかにされたい。
5 答弁書二の2について
 答弁では、「平成十三年二月十二日付けの北海道新聞(中略)は承知して」おり、また、「厚生労働省社会・援護局業務課資料調査室は、旧日本軍から引き継いだ資料には「サハリン(旧樺太)少数民族」が旧日本軍に従軍したという記録がないとしているが、これは当該従軍の事実までを否定するものではなく、御指摘の信濃毎日新聞の報道と矛盾するものではない」と答え、更に「旧日本軍従軍について、それを記録した資料の存在を含め、調査を実施したことはない」としている。
 戦時中の日ソ軍事問題は、現在でも不明部分が多いのが情報機関の通例である。事実が消され隠蔽されているからこそ、事実に基づく調査を様々な角度から行っているのである。戦後補償に関わる問題では、当事者から求められれば、政府が調査すべき課題である。隠すのではなく、明らかにすべき問題の具体例は、以下のとおりである。
(1) 「日ソ中立条約」(一九四一年四月)の翌年十月の竹田宮の訓令「北方静謐」(北緯五〇度線では紛争を起こさないという意の訓令)を旧満州ハルピン特務機関長・鈴木康生樺太師団参謀が拝命し、樺太に赴任した事実について、承知しているか。その後、「日ソ中立条約」の下で、北緯五〇度線で日ソ両軍の激突があり、その前後に日本側の少数民族の犠牲が生じ、少数民族の戦犯者の裁判記録が存在することは、日本政府が少数民族を徴用し、軍事法廷でロシア刑法の適用を受けたことの証明ではないか。
(2) 訓令は一九四二年十月だが、その翌年九月、北緯五〇度線で小川ワシューカ(ウィルタ)がソ連兵に狙撃され即死した。ワシューカの死は病死と公報されたが、なぜ病死か、戦死ではないのかと話題となった。遺体を遺族にも渡さず、ツンドラ(凍土・湿地帯)に埋めた。訓令を受けた参謀が国境視察後、どのようなツンドラ作戦をとったか、調査したか。また、前記二3のとおり、児玉議員が二〇〇〇年三月に国会で取り上げている問題も再調査の上、問題点を明らかにされたい。
(3) ワシューカの遺体処理を命じられた次の二名の少数民族についても調査されたい。
① 奥田桃太郎(ニブフ)は、一九四五年八月十七日、オタス土人教育所(土人学校)傍の防空壕内で、ソ連兵による射殺と敷香署は断定したが、野村儀一・元ウタリ協会理事長は当時、一二五連隊本部付下士官として国境気屯でソ連軍と激戦中であり、「八月二十日まで戦闘が続き、警察発表はウソ」と証言している。
② ナカノ・グリゴロ(エヴェンキ=ウルチ)は、戦後、軍事法廷で「何回越境したか」との訊問を受け続け、咄嗟に不動の姿勢をとって(キヲツケをして)、「テンノウヘイカに聞いてくれ。日本のカミサマじゃ」と涙を流して訴えた。その様子に気狂い扱いを受け、戦犯者として重労働十年となった。
(4) これらは少数民族の従軍に関わる事実であり、野村儀一氏は亡くなられたが、北海道沙流郡門別町(現・日高町)在住の元憲兵曹長、佐々木保治氏は「事実についていつでも証言します」と協力の意向を持っておられる。現在、八十八歳の佐々木氏に直接確認すべきだと考えるが、政府の考えを示されたい。
6 答弁書三について
 「「サハリン(旧樺太)少数民族」の方々に対しては、今後とも援護法の規定に基づく遺族年金等を支給することにより、適切に対応してまいりたいと考えている」と答えているが、「適切に対応」するということは、日本国籍・外国籍条項の国籍条項を「外す」ことを意味しているのか。遺族年金支給対象者は殆どがロシア国籍者で、法令による受給対象外に当たる。ここでいう「適切に対応」するとは、「台湾住民である戦没者の遺族等に対する弔慰金等に関する法律」(昭和六十二年法律第百五号)と「特定弔慰金等の支給の実施に関する法律」(昭和六十三年法律第三十一号)を指すのか、「適切な対応」の考え方を明確にされたい。
7 答弁書四について
 自公政権は、「御指摘のサハリン戦没者遺族会の要望に沿うような施策の実施は考えておらず、また、同遺族会代表等との話し合いを行うことも考えていない」と答弁して、同遺族会の要望の一つ「墓参と肉親の交流」の実施についても、「わしらの声を知ってほしい…ミナミ(台湾)の兵隊さんは考えて、キタ(サハリン・わしら)の兄弟の問題は忘れているのか。わしらは昔の土人ではない」と厳しい眼を向ける遺族の声を聞き、話し合うことも「考えておらず」と切り捨てた。
 同遺族会は、日本サハリン同胞交流協会が毎年実施している「墓参と肉親との再会」(三十五回、二千人以上、中に少数民族の遺族・戦後日本人と結婚した家族も若干加わっている)を知っており、多くの遺族会代表がなくなる中で、「わしらが元気なうちに、一度の墓参・交流」の声を日本政府に届けたいと願っている。遺族の声は決して難しい「願い」ではないはずである。政府が変わった、新しい政権になったことを同遺族会は知っている。
 民主党政策集二〇〇九では、「先の大戦において内外に多くの犠牲が存在したことを忘れてはなりません。そのことを念頭に、戦後諸課題の解決に取り組みます」と公約しているが、「解決」すべき「諸課題」には、サハリン(旧樺太)少数民族戦没者の戦後補償問題も含まれるのか。政府の見解を示されたい。さらに、新政権は、これまでの自公政権と同様に、「遺族会代表等と話し合うことも考えていない」という立場なのか、明確に答弁されたい。

三 領土問題の解決にむけた、積み残された戦後補償問題の位置づけについて

 サハリン(旧樺太)州では、日本企業の資本も入った天然ガス開発プロジェクト・サハリン2が進められている。天然ガス輸送の大動脈を担うパイプラインの設置計画にたいして、タライカ地方(ポロナイスク地区・遺族会)の少数民族が一斉に立ち上がり、反対運動が広がったことに、ロシアはサハリンエナジー社からの損害賠償、ロシア州政府からの医療奉仕や教育、文化、伝統的手工業の発展のための予算増額といった措置を次々と打ち出している。
 民主党政策集二〇〇九では、「北方領土問題を解決して日露平和条約を締結する」とある。戦後積み残されたサハリン(旧樺太)少数民族戦没者の戦後補償問題を解決することが、領土問題を解決する上で、大きな足がかりになると考えるが、政府の見解を示されたい。

  右質問する。