質問主意書

第1回国会(特別会)

答弁書


(答弁書第八十五号)昭和二十二年十月十六日配付

内閣参甲第九七号
  昭和二十二年十月十四日

内閣総理大臣 片山 哲      


       参議院議長 松平 恒雄 殿

参議院議員池田恒夫君提出満洲開拓移住民に関する質問に対し、別紙答弁書を送付する。



   参議院議員池田恒雄君提出満洲開拓移住民に関する質問に対する答弁書

第一、

(1) 開拓民の送出は昭和七年以来昭和二十年まで十四年間集団、集合、分散開拓民を、又昭和十三年以来昭和二十年まで八年間青少年義勇軍を夫々継続送出して来た。而してこれが年次別送出員数については資料喪失のため詳細は不明であるが概ね第一年度-第五年度までは毎年三百戸乃至五百戸、第六年度-第十三年度は毎年四千戸乃至五千戸、第十四年度即ち昭和二十年度には一千戸計概ね五万戸、青少年義勇隊については毎年一万名乃至一万二千名昭和二十年には七百名計九万二千名を夫々送出した。
(2) 開拓民についてその送出当時の職業構成は農業者、農業経験者が圧倒的に多く、商業、工業、その他各階層からなつている。又年齢別構成については男子は三十乃至三十五才、女子は二十五乃至三十才が最も多く所謂働き盛りの人達が移住したのであるが分村計画の実施に伴い老幼者も逐次増加していた。
 なお義勇隊についてはその家庭の職業別構成についても農業が圧倒的に多いが開拓民の場合に比しその他の階層に属する俸給生活者の比率がかなり大きい。又年齢構成については十六才十七才が圧倒的で十五才が一部占めているが以上を通じ資料喪失のため詳細は不明である。
(3) 終戦当時開拓移住地は概ね八百ヶ地区に散在していたがこれ等移住地は開拓民が未墾地入植を原則としていた関係上未墾地の多い中、北満地帯にあつた。
 しかして分村計画の実施に伴い入植者は逐次増加の傾向にあつたが戦争の進展につれ国内労務事情等から送出は極度に制約を受け開拓民の入植については既入植地の補充、立地条件の良くないもの、又は入植者の極めて少い開拓地の整理統合を図つた。
 農業経営については当初現地即応の原住民農法を実施したが昭和十四年北海道農法を大陸農法の名の下に試験的に導入し昭和十六年より本格的に普及に努めた結果開拓民の平均耕作面積は五町歩強に達し、年次の古いものについては十町歩以上のものは相当ありある程度の供出も出来る状況にあり従つてその生活も逐次向上しつつあつた。
(4) 義勇隊は当初常時概ね三万五、六千名の在籍数であつたが逐次減少し終戦当時は二万一千余名が三十数ヶ所の訓練所にあつた而してこれ等義勇隊は将来開拓移住地の建設に適する人物の養成を目標とした訓練所において所要の実務と学課を修得し三ヶ年の課程を終了し義勇隊開拓団として移行入植し既に第五次の義勇隊開拓団が設定されていた。
 尚訓練所はその合理的経営のため自給自足を原則として之に努めると共に宿舎等諸施設の整備、改繕に努めた結果健康状態は良好であつた。
(5) 帰還した開拓民の報告を綜合すると
 開拓団は殆んど東北満、北満等僻遠の地にあり且つその中心となる青壮年男子が応召しておつたため必要以上の混乱に陥り其の犠牲も亦大きかつたが逐次集結落ち着くに及び諸種の方法で自活し帰還を待機していた。
(6) 青少年義勇軍は終戦当時二万一千余名あつたと推定されるがその中身体強健なるもの一万余名は南満重工業地帯又は松根油の採取に動員され訓練所にあつたものは在籍者の概ね半数で而も職員は続々として応召したので僅かに老幹部及病弱訓練生を主としたものが三十余ヶ所に分散していた。而して日ソ開戦と同時に避難を開始したが途中ソ聯の俘虜として抑留された相当数のものは途中難民となつてハルピン新京へ避難集結したものがあり又前述の動員されていたものはその所属の会社の解散と同時に独立の生活に入つたものが多かつた。
(7) 内原に入所中であつた義勇軍は終戦後速かに指導者引率の下に出身府県に帰還解散せしめた。
(8) 満洲がソ連の占領下にあつたため連絡の方法なく連合軍その他を通じ一般邦人と同様開拓民及び青少年義勇軍の引揚促進の申し入れをなした。
(9) 終戦当時開拓民は青少年義勇軍を含めて在籍概ね二十余万と推定されるがこの中果して何人か応召の後ソ聯地区に抑留され又死亡、行方不明、残留したかは適格には把握し得ない。
 最近まで概略引揚者十二万人と推定しているが詳細は不明である。
(10) 開拓民及び青少年義勇軍の内地引揚に際して政府は特別の方途を講ずることなく一般引揚者と同一の取扱いをなしている。
 引揚後の帰農については開拓民及び青少年義勇軍共農業の適格者として国内開拓又は一般的に帰農することを望んでいる。

第二、

(1) 満洲移住協会は拓務省が満洲移民事業を遂行するに当つてこれが宣伝普及の機関として設立された財団法人である。政府はこの会に委嘱して満蒙開拓青少年義勇軍及満洲移住者を指導する幹部の訓練を実施せしめ所要経費を補助していた。それで満蒙開拓青少年義勇軍訓練所は青年移民(青少年義勇軍)が満洲に渡る前の準備訓練を実施するために満洲移住協会が経営した施設であり、満蒙開拓幹部訓練所は満洲移住者の指導者となる者を訓練するために満洲移住協会が経営した施設である。
 国民高等学校は日本国民高等学校協会が経営する農家子弟を教育する施設であつて満洲開拓とは関係なく政府も補助していない。
 各都道府県立の農民道場の一部にはこれが農家子弟の教育施設であつた関係から満洲開拓民訓練所を併置して満洲移住者の満洲に渡る前の準備訓練を実施せしめ所要の経費を補助していた。
 農兵隊は農林省が食糧増産応急対策に基いて実施した食糧増産隊のことであつて農兵隊というのは俗称である。
 この施設は当時における農村労力の不足と農家後継者の減少という困難な状態から農村を保持するためにとられた施策で農家の後継者となる者を訓練して農業に対する知識技能の向上を図ると共に不耕作地の解消、開墾、土地改良等を実施して農業生産の維持を目途としたのである。
 このため政府は各都道府県に指示して国民学校卒業後農家の後継者となる青少年を以て食糧増産隊を編成せしめ農業報国会次いで農事振興会に国庫補助金を交付しこれが運営に当らしめた。
 従つてこの施設は満洲開拓事業とは関係がなく訓練を実施するために内原訓練所の施設を一時的に利用したのである。
(2) 満州移住協会は終戦後解散したがその財産は満州引揚開拓民の援護を目的として設立された開拓民援護会に無償譲渡せしめた。
 なお満蒙開拓青少年義勇軍及満蒙開拓幹部訓練所は終戦後解消し入所していた青少年は父兄の下に帰還せしめ、幹部訓練所に入所中の者の内で希望者は全国農業会が開設した高等農事講習所に入所せしめる措置がとられた。なおこれ等の施設に関係していた職員は解消と共に職を失つて離散した。
 各都道府県立農民道場に併置されていた開拓民訓練所は終戦後解消し、その施設は各都道府県において引揚者の収容所その他それぞれ適当な利用の方途を講ぜしめた。
 食糧増産隊は終戦後解放されて関係者は離散した。
 (3) 満洲移住協会の財産は原則として一括して開拓民援護会に無償譲渡せしめることにしたが、右の内内原訓練所の財産中幹部訓練所の土地、建物、設備等の財産の全部及び青少年義勇軍訓練所の財産の主要部分は全国農業会へ譲渡され、一部の土地は帰農する者に提供し又建物の一部は附近の村等に分譲するの措置をとり残余の部分は開拓民援護会が引揚者の収容施設として利用している。
 各都道府県の開拓民訓練所は各都道府県が他に活用している。
 食糧増産隊を運営した農事振興会所属の財産は同会が閉鎖機関に指定されて特別の措置がとられている。
 (4) 満洲移住協会及内原訓練所は終戦後解散し、役職員等は当然にその地位を解消して離散した。各都道府県の開拓民訓練所及び食糧増産隊については前項に述べた通りである。

第三、

 第一次世界大戦後における世界的経済恐慌によつて人口過剰と小規模農家の多い我が国農村は甚しい経済不況に見舞われ農家経済は危機に直面する状況であつたので政府は各種の施策を講じ農村更生を企図したのである。この際満洲の未墾の荒野に日本農民を移住させることが出来る機会を得たので、政府は農村の人口厭力を緩和すると共に経済的に安定した農家を育成し、農村の合理化を図るため満洲移民政策を国策として遂行することになつたのである。
 従つて満洲移民を送るに当つては分村計画等によつて農村更生に関連せしめ又将来農村の人口厭力を増す農家の二-三男はこれを教育して北方の農業及生活に習熟せしめた後自作農を創設せしめることが妥当と思われるので、青少年義勇軍がとりあげられ或は転廃業による失業者を帰農させる途として満洲移住を進めたものであつてこの施策が誤解を受けることがあつたならば甚だ遺憾とするところである。
 引揚げて来た満洲移住者はその農民としての体験や実力を活して国内の緊急開拓に向わして生活の安定を図らせる方途を講じている。
 なお農村における民主主義の発展のためには農地改革、農業協同組合の育成等の具体的政策に則し強力に農民に働きかけ殊に青壮年に対する働きかけについては特に重点を注いでいるつもりである。