事務局からのお知らせ

参議院60周年記念論文入賞者



日本の司法とその課題解決について

徳島県 徳島県立城南高等学校 1年
兼松 希衣

 日本の司法は今、転機を迎えようとしている。2009年までに裁判員制度が完全に施行され、我々国民も裁判に参加できるようになるのである。よりよい司法、よりよい裁判を目指したこの制度が、果たして本当にそれを実現できるのか、私はいささか疑問である。今の社会情勢から見て、この制度にはまだ改善すべき点があると感じざるをえない。
 裁判員制度とは、一般国民から選ばれた裁判員6名と裁判官3名が重大な刑事事件の有罪、無罪を判断し、量刑を決める制度のことである。このように、国民が裁判に参加する制度は、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア等の国々でも行われており、裁判を国民にとってわかりやすくして、司法への信頼が向上することが期待されている。
 裁判員には、20歳以上で裁判員法に挙げられている事柄に該当しない国民ならば原則として誰でもなることができる。対象事件は、代表的なものとして殺人、強盗致死傷、傷害致死、危険運転致死、現住建造物放火、身代金誘拐、保護責任者遺棄致死など。平成15年度は地裁刑事通常第一審の約3.9%を占めていた。2009年はもう目前である。それに、私も4年後には20歳を迎えるのである。今は直接関係がないことであっても、どこかで必ず、向き合うときがくるだろう。
 現在の我々にとって、最大の情報源はテレビや新聞、そして近年発達しているインターネットなどのマスコミだ。全国各地で日々起きている事件も、政治状況もすべてそれらが無ければ知るのは困難である。つまり我々は、マスコミが与える情報以外に比較する対象を持たない、実に視野の狭い部分でしか情報を受けとっていないのである。
 また凶悪犯罪についての報道が我々に伝えるもの、中でも特に被害者や遺族のことは、悲しみと怒り、そして犯人に対する憎しみなどの感情的な部分が大半を占めているのは事実である。このような偏った情報によって国民の感情が左右されている今の社会の中で、我々が裁判に参加して公平な審理を行うのは、不可能だと思う。裁判とは法に基づき行われるものであり、決してそこに自らの感情を加えてはならない。しかもその「感情」がマスコミの与える情報から生まれているのである。このままでは、公平な裁判を目指すはずの裁判員制度が、本当に裏目に出るかもしれない。そうなれば、司法が存在する国としてあってはならないことが起こりうることも、否定できなくなるであろう。
 その中でも、我々が最も懸念すべきことは、日本が今もなお死刑制度を刑罰として残す世界の国々の一つであることである。死刑制度には、国内でも賛否両論、様々な問題が取り巻いている。私は、たとえ刑罰であっても、死刑制度は殺人であることと変わりないと思う。ゆえにこの制度には反対である。その問題として、一つは制度そのものがいまだきちんとした形で確立できていないということがある。昨年12月25日、広島、大阪、東京の三つの拘置所在監中の死刑囚4人の死刑が執行された。執行は南野法相時代の2005年9月以来1年3ヵ月ぶり、一度に4人執行されたのは97年以来9年ぶりだった。その要因が法務大臣の交代にある、と言っても過言ではない。杉浦前法相は「私は宗教上、死刑執行はしない。」と宣言し、言葉通り任期中の死刑執行はなかった。ところが、長勢現法相は「今回の執行は法の規定に則って適正に判断した。このままであれば未執行者が百人を超える勢いであり、これを超えたら制度としておかしくなる。私は死刑執行は行われるべきであったと思っている。」と、杉浦大臣とは全く逆の意見を持っているのである。日本の死刑制度では、判決後すぐに執行されるわけではない。法務大臣の死刑執行命令書への署名無しには執行されないので、その日時の決定権は在任中の法務大臣にある。つまり、法によって裁かれた刑罰、しかも「死刑」という人間の生死に関わるものが一人の人間の価値観によって左右されているということである。たとえその人物が法務大臣という日本の司法のトップであろうと、これは明らかにおかしいことであると私は思う。
 また、死刑にはそれを行う死刑執行人の問題もある。死刑執行人は、法律上で罪を問われない殺人をしているのと同じである。いくら職務上とはいえ、彼らの人権を無視してはならない。人を殺すという恐怖や苦痛を彼らは味わっているのである。このことを忘れてしまっている人が今の日本はとても多い。死刑執行、その背景には必ず執行人がいることを、死刑制度を残そうとする人々に考えて欲しい、私はそう思っている。
 そして、問題の中でも最も重要視されているのは、その犯罪が冤罪である場合の危険性があることである。実際に、死刑判決を受けた死刑囚が、無罪放免を勝ちとり出所したこともあった。今の日本の司法では、無実の人を死刑にしてしまうこともあるのである。冤罪とは、下された判決とその刑罰の重さに関わらず、あってはならないことである。その防止も含めて裁判員制度が導入されるのも事実である。しかし、今の我々は前述にもあるようにマスコミからの偏った情報しか受けとっていない。たとえば栃木で起きた、6人が生きたまま焼かれて焼死するという残忍非道で計画的な強盗殺人事件、広島や大阪で起こった、幼い少女に暴行を加えたうえ殺害するという事件などは、本当に目を覆いたくなるような痛ましい事件であった。これらの事件の報道を見て、「こんな犯人を許すことはできないだろう。」などという、憎しみの感情が我々には生まれてくる。そして、それが死刑制度を今後も残すべきだという考えにつながっているという事実は、否定できない。
 確かに、犯人に対しての憎しみの感情を抑えることができないのは、当たり前だと思う。私も、そのような犯罪を犯した犯人を、決して許すことはできないだろう。しかし、憎しみという感情を積もらせていくだけで、本当にいいのだろうか。いや、そうではない。ここで思い返すべきことは、我々の視野の狭さである。本当に、被害者や遺族の人々が望んでいるものは何なのか、はっきり見極めていく力が我々には欠けている、ということを忘れてはならない。
 今から2年後、裁判員制度は確実に行われる。そうなると我々は、いつ、どこで、どのような事件の裁判に参加することになるのかはわからない。本当に、裁判員制度の意義や目的に則った、公平でかつわかりやすい裁判を実現させるためにも、我々は、自分自身の中で適切な判断力を持っていかなければならないのである。
 今の日本の社会で日々起きる痛ましい事件発生は、後を絶たない。私は前述で「死刑制度は間違っている。」と述べたが、そもそもは、死刑制度が必要であると思われるような社会が間違っていると思う。確かに、犯罪を無くすというのはとても難しいことである。多種多様な人間関係を持つ中では不可能というより仕方がないであろう。しかし私たちは根本に、犯罪のない世の中を望み、その中に明るい未来像を描いている。そして、その未来像に合った日本を構築するために、それぞれ考え方は違っていても、何らかの思いを持っているはずである。
 犯罪は人間によって引き起こされるものなのだから、その数を一つでも減らしていくのもまた、人間であると思う。我々が、国民の一人であることに自覚を持ち、責任ある行動をとることで、自分を取りまく社会環境の見え方が変わってくるのではないだろうか。責任ある行動によって、正しい司法のもとに成り立つ社会は実現できることなのである。
 では「自分自身の中で適切な判断力を持つ」とは一体どういうことなのだろうか。それは、思っているよりも身近な部分から身につけていけるものであると、私は思う。「適切な判断力」というのは、周囲の意見を広く受け入れ、また、同じように自分の意見を幅広く伝えていくことから養っていくものである。だから、自分の意見を明確にしっかりと相手に伝えられるよう、たくさんの知識を身につけていくことが必要だと思う。知識とは、学校の授業によって得られるものだけがすべてではない。様々に変化する生活環境の中で、学校で学んだことも視野に入れながら、自分の目で新しいものを見つけていくことも、知識を得る方法の一つである。
 私は、これからの日本が明るく豊かで、国民が真から信頼できる国家を持つ国であって欲しい。その基盤として司法の面からは、我々に、裁判員制度という材料かつ課題が与えられた。これまでの、 感情だけで言動を自由にできる傍観者ではなく、今からは裁判員として、日本の司法を確立させていかなければならない。
 今の私は、高校生であり、周囲から学ぶことによって会得していくものばかりである。裁判員として必要な「判断力」も、私は今身につけておくべきである。しかし、4年後、そして6年後は違う。成人になり、大学を卒業すれば私も一人の社会人である。 私は将来、中学校の教師になることを目指している。だから教師として、生徒、つまり私の後の日本を担う子どもたちに、自分が身につけたことを教えていきたい。そして、彼らに、また次の世代へと伝えていく連鎖の手を出していってもらいたい。一人の国民、一人の社会人として。