事務局からのお知らせ

参議院60周年記念論文入賞者



全ての人に愛を

熊本県 熊本県立第二高等学校 1年
吉田 聡子

 2006年、11月。熊本で、スペシャルオリンピックス日本夏季ナショナルゲーム・熊本が開催された。略称はSO。精神障害者のためのスポーツの祭典である。今回の大会テーマは、「飛び立とう はばたこう 勇気の翼で!」
 私は部活を通し、SOにボランティアとして参加した。大会を開催するにあたり、県内外各地から、約3000人のボランティアが募られたのだ。私の部署は式典祭事。開会・閉会式のいわば裏方役だ。
 SOに参加する前、私は一度も精神に障害を持つ方との関わりが無かった。そのため、当日はとても緊張していた。そのような方とどのように接したら良いのか、またどのような症状を持つ方なのかというようなことで、頭がいっぱいだったのだ。だが、現実はそう力まずとも良いものであった。外見は特に健常者と違いない。彼らの振る舞いはとてもおとなしいものだったし、話しかけるとほほえみを交えながら答えてくれた。
 彼らアスリート達と話をして驚いたことだが、彼らは一人ひとり、夢を持っていた。県外から来た人で、熊本の伝統料理を食べてみたいという人。自分が働いている喫茶店にもっと客が来てくれるように頑張りたいという人。自分の出場種目であるシンクロナイズドスイミングを頑張りたいという人。夢を語るアスリートの表情は、とても生き生きとしていた。
 アスリート達は、どうしてこんなに輝いているのだろう。精神障害というハンディを抱えながらも、そしてこの哀しい日本の最中に在りながらも、どうしていつも、ほほ笑んでいられるのだろう。その時私は、彼らの中に、日本の在るべき姿を垣間見たように思う。
 日本は、良い国なのか。確かに、憲法によって守られているおかげで、治安は良いだろう。国内総生産も世界で2位であり、経済的にも安定していると言える。コンビニが隅々にまで設置され、いつでも必要なものが手に入ったり、携帯電話の普及により、連絡が簡単に取り合えるような便利な社会であり、食料で困ることも無い。高度な医療技術の発達により、平均寿命は世界でトップを維持している。だが、私の個人的な回答としては、NOだ。残念ながら日本人は、命をかけがえのないものとしてみなす術を忘れてしまった。子が親を、親が子を殺す。兄弟同士が殺し合う。絶望し、自ら命を絶ってしまう。医療技術が発達していることで、妊娠したのにも関わらず、中絶の道を選択してしまう。命こそ、最も守るべき、そして愛し愛されるべきものであったはずだ。それなのに、自分にとって不利益な他人の命、自分自身の命、まだお腹の中に生きている命が、どんどん失われていく。
 アスリート達は、決してひとりでは生きていなかった。彼らの周りには、いつも誰かがそばにいた。それは家族であったり、コーチの方だったり、友だちであった。彼らがひとつのことをやり遂げるために、それを支えてくれる数えきれないほどのサポーターがいて、いっしょに喜びをわかちあい、支え合い、時には涙さえ共に流していた。周りにはいつも、笑顔があふれている。彼らは決して、後ろを振り向かない。自分の可能性と、周りにいてくれる人の存在を信じて疑わないのだ。
 アスリート達が輝き続けられる理由は、まさしく周りのサポーター達がいるからである。彼らの心の中はいつも、温かい愛情で満たされている。
 日本人は、昔から慎み深い民族である。そのため、公共の場で抱き合っていたり、キスをしていたりするような人達の姿は見られない。そしてまた日本人は、「愛している」という言葉を、滅多に遣わない。そういう習慣が初めから日本人にはないからである。これは、重大な問題であると私はとらえる。なぜなら、この事実はつまり、子どもたちが他人を愛するということについて、重要視しない可能性があるからだ。
 欧米諸国では、そういった行為は、あたりまえに見受けられる。子どもたちは、両親が愛し合っているということをそれによって認識し、自分も愛されていると感じる。そして、愛しているということを他人に伝える術も学んでいくのだ。すると、命の大切さも自ずと心に刻まれていく。他人を大切にすることで、自分もかけがえのないものとしてとらえることができるようになっていくのだ。まさに、アスリート達の状況とそっくりである。
 それに対し、そうでないわたしたちはどうか。心の中では思っていても、言葉や行動に愛情が現れなければ、子どもたちはきっと、自分が本当に愛されているのかと、いつの日か不安に思う日が来るかもしれない。現に私自身、子どもの頃は、自分は一人で生きているのだと思っていた。もし、他人を愛する術が分からないまま大人になっていたら、一生誰も心からは信頼できず、自分も好きになれずにいたかもしれない。
 マザー・テレサの言葉の中に、次のようなものがある。「今日の最大の病気は、らいでも結核でもなく、自分はいてもいなくてもいい、だれもかまってくれない、みんなから見捨てられていると感ずることである。最大の悪は、愛の足りないこと、神から来るような愛の足りないこと、すぐ近くに住んでいる近所の人が、搾取や、権力の腐敗や、貧しさや、病気におびやかされていても無関心であることである。」
 お年寄りが一人暮らしをし、誰にも看取られずにひとりぼっちで死んでいく。とてもとても悲しいことである。愛の欠乏は、私たちに重大な悪影響を与えるのだ。
 だからこそ、アスリート達自身と、彼らの生き方がもっと重要視されていくべきである。彼らはきっと、サポーターを含め、健常者の何倍もの苦労を重ね、今に至っているのだろう。それなのに彼らの言動は常に前向きで、純粋で愛情に満ち輝いていた。SOに参加するまで私は、日本に彼らのような人たちがいるということを知らなかった。知るはずが無いのである。なぜなら日本は、障害者を陰に隠してしまうような社会を築いてきたからだ。障害者のための教育機関、交通機関、施設は決して充分に完備されてはいない。障害に対する知識さえ、普及していない。大会テーマである、「飛び立とう はばたこう 勇気の翼で!」これは一見、アスリート達を応援するための言葉に聞こえる。だが、ある意味この言葉は、わたしたち健常者に、もっと障害者が活躍できる場所を与えてほしいという、アスリート達の叫びにも聞こえる。
 私は日本が、心の豊かな国になってほしいと願っている。愛するということの大切さを、もっともっと広めてほしい。私は中学時代から学校の保健体育の時間に、避妊について教わってきた。しかし実際は、自分には絶対に関係の無いことだと思っていた。赤の他人とそこまで親密な関係になることなどあるはずがないと、そう思っていたのだから、そんな話をされてもあまり重要だとは思わなかった。今思い返すと、なんて恐ろしいことだろうと思う。もしかしたら私も、命を軽く考えてしまうような人間になっていたかもしれない。それよりも先に、愛すると言うことについて教わっておきたかった。
 まず、日本がしなければいけないことは、総合教育、道徳の授業である。「学力低下」「フリーター・ニート増加」という事実に踊らされ、総合教育をカットして5教科の割合を多くしている学校が増えている。高校では、道徳の授業は無いに等しい。日本の90%以上の中卒者が通っている高校。社会に出る前の、大事な時期にある高校生達、私たちにもっと、命の大切さを教えてほしいと思う。
 それから、障害者のための施設や機関を充実させ、彼らにもっともっと日本の先頭に立ってもらうことである。日本の担い手として。
 未来の日本は、今とどんなふうに変化しているのだろう。障害者は今よりも、日本の先頭に立てているだろうか。高齢者の一人暮らしは、無くなっているだろうか。子どもたちの心の中は、愛情で満たされているだろうか。これからの日本が、自他を尊敬し、すべての人が助け合いながら生きていくような国になることを願っている。そしてもちろん、わたしもそんな国が実現されるように、愛することを忘れずに、さまざまな境遇の人と関わっていけるような人生を送りたいと思う。
 SOの閉会式の最後に、会場の天井から、紙で作られた何千羽もの白いハトが舞った。平和を象徴するハトは、最後の一羽まで、アスリートの手の中に収められていった。