事務局からのお知らせ

参議院60周年記念論文入賞者



日本らしい外交を夢見て

岐阜県 聖マリア女学院高等学校 2年
鈴木 祐衣

 今からそう遠くない未来をふと想像してみる。日本も諸外国も現在とは少し違う社会へと移り変わった中で、私は30歳を目前にし、自分の生きる道を着実に歩んでいる。
 今日懸念されている団塊世代と若者たちの世代交代も、相互が求められている的確なニーズに対応し、各々が自分なりの「生きがい」を遂に見出した。まるで今まで抱えていた何かをふっきるかのように。また、国家レベルにおいては新たな外交テクニックと視点を培い、今以上に国としての存在と威厳を示し世界に意見している姿が目に浮かぶ。
 さて、このような現状より一歩進んだ別世界を現実に具体化するにはやはり、基盤となる「いま」を見据える必要がある。現在、社会においては様々なものが病んでいる。それは環境であったり、人間であったりと問題は多岐にわたる。このような厳しい現状はどれも意思疎通の障害から生じるものだと私は考える。
 まず第一に、コミュニケーションを欠いているものといえばそれは私たち日本人自身である。社会を構成するには人とそれを取りまく環境が必要だ。その構成員一人ひとりがしっかりとした関係を築き上げることが出来なければ、どうやって理想的な社会を望むことができるであろう。本来日本はアジアの端に小さく浮かぶ島国であり、自然に一つの共同体としての意識が強い国であった。確かに近代化につれて外国文化の導入もあり、若干の意識の薄れは生じたが、それでもまだその意識は存在している。正規外国人労働者が以前に比べ増した様子を見ると、将来的に対少子化社会の対策として、どうしても他民族を受け入れる必要が生じてくることは予想できる。しかしなかなかそこまで踏みきれていない姿があることの裏側には、共同体としての意識を依然抱えている代表的な例と思われる。けれども、だ。そのような意識が潜在するにもかかわらず、日々心ない事件がニュースを賑わすのは一体どうしてなのだろう。
 自分をしっかりと評価することが出来ない時、人は存在価値に疑問を抱き、自分自身をなおざりにしてしまう。評価するということは自分対自分の対話である。その際、はっきりとした目標が生活する上で無い、と考えてしまう傾向が多くの人に見られるようになってくると、社会は右向け右の姿勢が濃厚になる。自我の軽薄化によって抽象化されてしまった意識が一つ具体的なものを発見すると、一斉にそれを取り入れてなんとか存在価値を保とうとする。しかし、結果それが転じて、時に精神的なストレスとなって返ってくる。私たちは「勝ち組」「負け組」のどちらかに自分を位置づけ、自分はこういうものだ、と決めてしまう傾向がある。これでは全く夢がない。人は他人より勝るために仕事をするのではない。本来、自分がしようとすることを全うすることに自己存在感を感じ、人は生きていることを実感し、喜びを感じる。格差というものは、江戸時代、いや、もしかしたらそれ以前から脈々と存在していたものであったし、経済的に裕福な人はほんの一握りだった。
 日本の歩みを戦後からという範囲で見ると、なぜかしら現在がどうしようもなく「夢のあと」に思えてしまう。「木を見て森を見ず。」つまり、広い視野で物事をまず見渡してみる余裕が持てるようになれば、おのずと自分が案外、アイデンティティーも確立できており、孤独ではなく、本来はともに生きてきた共同体であったことに気づくであろう。
 これらの問題はどの国家にも通じる、今日のグローバルスタンダードではないだろうか。そうでなければ、どの国も表向きにしろそうでないにしろ、いがみ合ったりしないはずだ。先に述べたように国民の姿を国家は反映する。国民間で意思伝達がうまくなされていない国は、やはり、ほかの国とのコミュニケーションのとり方が不十分で、注意も意見も、残念ながら相手の核心まではなかなか届かない。
 かつての冷戦を例にとれば、そこには社会主義社会と資本主義社会において、大いに成功を成し遂げた国が対立した。単に根本の精神が違うから、と一言で済ませてしまえばそれだけのことであるが、そんな簡単な一言で全てを締めくくってしまってはならない気がする。ならばなぜその時は戦争でなく冷戦で終わったのか。なぜロシアはアメリカに対し力を示すために原子爆弾を使わなかったのか。そこにはお互いの間に一つ通じ合った意識があったからではないだろうか。つまり「今回は戦争まで話を広げるのはひとまずやめておこう」という両国の意思が。
 また、日英関係を考えてみるとどうだろう。太平洋戦争後、日本はアメリカと特に頻繁に関係を持ち、外交では互いになくてはならない存在となった。私が1年間イギリスに留学していた時、テレビや一般に販売されている新聞で見ることのできた日本のニュースは、経済と産業がほとんどを占め、日英間外交や日本の出来事について語られることは稀であった。語られるとしてもあくまで事実を「さらりと」伝える程度で、両国をつなぐものは物流を通した国家利益が根本にあるようだ。日本とイギリスのこの関係は、アメリカの存在が鍵である。大陸一つを挟むことで、イギリスは第一段階としてどことなく距離的に日本を遠く感じている。第二に、アメリカが積極的に日本に接近するために、イギリスは相反して精神的にも日本と疎遠になっていった。こうしてイギリスはヨーロッパと関係を強め、中東問題に熱を入れ始める。そして日本はアメリカと共にアジア問題に敏感になる。
 地理的な距離が国同士の心の距離に適応されるというのは昔のことだ。目に見える固体が船や飛行機に乗り、世界中を行き来する中、人間を構成する精神、すなわち心が、各国間で行き交うことがないということはあるまじきシチュエーションなのである。科学技術が発達した21世紀、人間が開発してきたすばらしい新文化、インターネットを有効利用すれば、今まで知り得なかった他国の新しい一面を垣間見、そして多面的に事象を見られる余裕が生まれれば皆が一致しやすい状況も生まれるだろう。距離が広がるほどに相手が不透明に見え、誤解や摩擦を生み、そして争いへと発展する。次にくる世界大戦はかつての様に列強同士が争うのではない。先進国と未開発国がぶつかり合うように思われる。互いの理解が築かれていなければ、かつてないほどに手段を選ばない戦いになるだろう。相手と軽薄な関係のみの付き合いをしていれば、国はおろか国民でさえ方向を間違えてしまう恐れがあるのだ。
 では、意見を伝えるその先に私たちが夢見る未来の日本のかたちはどのようなものであろう。これまでアメリカ中心外交に重きを置いてきたこと。そこに日本の成長への妨げがあるのではないか。気がつけば、日本は強い決意を主張するスキルを不十分なままにして、経済のみを発展させてきてしまった。アメリカの傘下にあるため、かつてヨーロッパのどの国も成し得なかった「止まることを知らぬ産業革命」を日本はこれでもかと見せつけられてきた。アメリカの軍事力に支えられた発言力や行動力に、日本は未だ不十分だ、という意識を自然と国民に植え付けられてしまった。しかし、だ。不景気だとは言われても満足のいく基盤を日本は保っている。ヨーロッパ諸国も現在の日本同様、かつてはめざましい発展を迎えては結果としてアメリカに抜かれていったが、十分に中庸な状態を保っている。だが達成範囲外を目指すと、社会に無理が生じ国民にも心身共に負担がかかる。これでは明るい未来など、とうてい望めない。
 日本は日本。自信を持てばいい。もっと日本らしさを出してしまえばいい。日本には独創性がある。憲法9条は世界の常識から見れば特異な平和憲法だが、結果としてそんな日本を各国は認めている。こんな国があっても面白いのではないか、と言うように。フランスも先日の首脳会議で日本の安全保障理事会入りに対し、日本のいない安保理はばかげている、という心強い言葉とともに支持する姿勢を示した。話し合いというのは、メンバーが熱く意見をぶつけ、様々な方向に試行錯誤すれば内容も濃いものになる。こんなすてきな日本が今まで100パーセントの成果をあげることができなかったのも、社会が日本を卑下して扱ってきたためではないだろうか。日本が世界に対し、「日本らしく」意見することが出来た時が、かつてのヴェールを取り去り生まれ変わる時なのだ。その点、安倍首相が訪米以前にヨーロッパ、アジアの主要人物と会談したことは高く評価したい。初の戦後生まれの首相は、外交面において新しい見方を私たち国民に示してくれそうだ。これから先、愛国心を基盤に国を引っ張っていくのならば、是非とも首相と、閣僚メンバーにはこれから先変わっていく日本に誇りを持ち、大いに存在を示してほしい。多少とっぴな発言をし、それが受け入れられようとも、拒否されようとも他国は日本の見方を必ず変える。日本は過去の歴史から脱却するのである。
 10年後、政府は今までの外交政策から一歩踏み出した言動で、世界のリーダーシップをとっているだろう。高い技術力と平和憲法に基づく強い経済力は各国から支持を受け、賛同されている。また政府が、社会保障を整備したことにより、国民は公共の利益、公共性を考えることを大切にしだした。様々な社会活動に積極的に参加し、政治や社会の動きに関心を持って行動している。自分の夢の実現のために、生き生きと働く若者たち。その中の一人としてジャーナリストである私は、日本が示す新しく輝かしい姿と歴史を、マスメディアに乗せて世界の人に伝え、彼らと関わりをもっていけたらと思う。溢れる情報に負けない、日本人としての誇りをもって…。