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参議院60周年記念論文入賞者



私にとっての「理想の国」

東京都 創価高等学校 3年
尾崎 雅之

 現在の日本には、実に様々な課題が山積みとなっている。中には少子高齢化問題のように、深刻な問題も存在する。そんな時代を生きる私たちにとって、「理想の国」とは一体どのような国なのだろうか。私が考える「理想の国」の条件をいくつか挙げてみる。
 第一の条件は、国は国民の権利を保障すると共に、権利を得た国民は課せられた義務を果たす、という基本的な関係が正常であることだ。これは日本国憲法において、基本的人権の保障や国民の三大義務が定められていることから考えて、ごくごく当たり前なことである。しかし実際には、今の日本の状態では問題がないとは言い切れない。例えば国民の三大義務の一つである税金はどうだろうか。実際には、税金未払いの人たちもおり、全国民が義務を果たせているとはいえない。それでいて権利や恩恵を受けようとするのは、あまりにも自己中心的である。当たり前のことを当たり前のように出来ることが一番重要である。そうした国民に対しては、国が対処していくしかない。だがその一方で国費においても、不正経理や税金の無駄遣いなどが指摘されている。国費とは国民の税金によって成り立つものであり、納税義務を果たした大半の国民には、税金をより多くの国民の利益に還元してもらう権利があるはずだ。それを政治家や行政機関などによって不正に使用されるのはもってのほかである。こうした問題の対処について、最も必要なのは国民サイドからのアプローチではないか。
 このように現状では国、国民の双方において問題が生じている。皆がより良く生活していくためには、当然双方の問題を解決していかねばならない。そのために国サイドからできることといえば、まずは国費における不正経理や税金の無駄遣いをなくしていくことである。そうでなければ、国サイドが脱税している国民に対して対処するというのは、論理的な矛盾が生じる。だがこれに関しては、国民のよりよい生活のために働こうと想い、実践していけば簡単にできるはずだ。そこで自分たちの私利私欲といかに戦うかが重要である。
 また国民サイドからできることは、大半の人びとは納税義務を果たしているわけだから、もっと国政に興味を持つべきである。特に若い世代において、選挙に無関心の人が多い。納税義務を果たした人たちがきちんと投票をし、政治に対して良いことは良い、悪いことは悪いと正論を主張していくことが求められる。これらの問題は制度改革による対処のような上辺だけの方法で解決できるものではない。個人個人の意識変革が最も重要なことである。そうしてやるべきことを果たした上で、間違ったことに対して声を上げていくことで、問題は解決されるのではないか。脱税に関しても、個人個人の意識を変革し、自らの私利私欲を打ち破ろうとしない限り、こうした問題はなくならないであろう。空をつかむような話かもしれないが、地道にやっていく以外に抜本的に解決できる方法はない。
 では個人個人の意識を変革していくにはどうしたらいいのだろうか。その方法の一つは教育である。これが「理想の国」の第二の条件だ。なぜなら、現代社会に山積みになっている課題の抜本的な解決には、やはり国民の意識そのものの変革が必要だからだ。教育といってもここで言う教育は、普段私たちが学校で学んでいる国語や数学といった教科教育だけではなく、モラルやマナーに関しての教育も含んだものである。
 その昔、武士道がまだ人々の心に残っていた時代では、良いことと悪いこととの白黒が今よりもはっきりしていたように思う。何よりも潔かった。そこには武士として、人としての倫理観があったからではないだろうか。しかし現代人には、そういった人としてのあり方を考えさせる武士道のような考え方や哲学はない。むしろ哲学や宗教などを批判することのほうが多い。そうやって軸を崩した挙句、現代人に残った軸はモラルやマナーだ。だがそれすら現代では崩れてきている。普通では考えられないような残酷な殺人や尊属殺も起こっているし、電車内でのマナーが守れていない人もいる。どこか考え方の軸が自分中心になってきているようだ。
 何も昔に戻れ、といいたいわけではない。ただ昔の人たちの心にあったように、現代人にも人としてのあり方を考える軸、もっと言えば哲学を持ったほうが良いと言いたいのだ。それも日本国内だけで通用するような、ちっぽけな考え方ではいけない。文化的にも経済的にも国際交流が当たり前の時代であるからには、世界に通用するような、これからの世界が求めるような正しい哲学が必要だ。それが何かを知り、その哲学について学ぶ、ということが重要なのではなかろうか。人びとの心に正しい哲学が根付くようになれば、考え方は自ずと変わり、行動にも反映されるだろう。抜本的に変えていくにはそれが一番有効だ。教育はそのための最善の手段である。
 そしてもう一つ、私が「理想の国」として最も重要だと考える条件がある。それは、平和のために尽力できることである。ここでは、「平和」とは「戦争のような残虐な争いごとがなく、衣食住が保障されて、皆が当たり前のように安全で、安定した生活を送れる状態」とする。
 日本においては、基本的には衣食住が保障されており、安定した生活を送れている。もちろん個人の努力を怠っている者は、必ずしも安定した生活ができているとは限らない。ただ少子高齢化が急激に進行している日本にとって、今後もそれが維持できる保障はない。2007年から始まる団塊世代の総退職により、働き手は一気に減少し、社会保障の必要性がさらに増す。一方でニートの存在や少子化によって、働き手を増やすのも難しい。これでは社会保障を維持するどころか、低下するのは目に見えている。
 これらの課題への対処策として、定年退職の年齢を上げて、社会保障の適用期間を短くするのはどうだろうか。今や日本は医療技術の発展によって長寿大国となっているのだから、可能な範囲で定年退職の年齢を引き上げてもかまわないだろう。ただしこれはあくまで一時的な処置であるため、これでは抜本的解決にはならない。何よりもニートの数を減らし、就業率を上げるしかない。そのためには、職業安定所や企業の対応などの力が必要だ。同時に、抜本的な解決には、やはり若い人たちの意識を変えていくしかない。つまりここでも教育が必要になってくるのである。
 また皆が安全で、安定した生活を送るには、世界規模でも平和である必要がある。世界規模で平和を考える際、まず徹底しなければならないのは、非暴力である。今なお緊迫した情勢の国もある。そうした国々に対しても、武器ではなく言論で対応していくことが最も必要である。国によっては衣食住が保障されておらず、日本のような安全で安定した生活とは到底かけ離れた生活を強いられている人々が、世界にはまだ数多くいる。そういった国々や人々への支援ができることも望ましい。だがそれを安全に行なうには、まずそうした国々や人々との信頼や交流が必要だ。そうした国々の代表と対話を重ね、お互いに認め合い、信頼しあえなければ、到底実現しえない。
 同時に、世界中の国々が、こうした考え方を共有し、認め合えた時にはじめて世界平和の実現に向かって、世界が一体となることができる。歴史を振り返っても、残虐な戦争が平和をもたらすものではないことは、数多の人々が口をすっぱくして主張してきたことだ。そうだと分かっているのなら、日本は世界を舞台に、もっと臆せずに堂々と、非暴力や全世界の信頼と交流の必要性を主張していくことが必要なのではないか。
 そしてもう一つ、安全で安定した生活をするのに必要な要素がある。それは環境保護である。現在最も深刻だと考えられている地球温暖化は、気温上昇のみならず、海面上昇や感染病の増加と、種々の弊害を生む。地球そのものに重大な問題が生じてしまっては、私たちが平和に暮らすことはできない。
 私は高校2年生の時に、「日本は炭素税を導入すべきである。」という論題でのディベートを通じて、発現に時間がかかる環境問題に関しては、原因として疑い深いものに対するいち早い対応が必要であると学んだ。環境問題は日本のみが抱えるものではなく、全世界が抱える問題である。武器を開発できる時間と技術があるのなら、戦争のためにその技術を使うのではなく、環境問題の解決のために有効利用しよう、と全世界に堂々と主張し、納得させていけるのが望ましい。
 そのためにはまず、日本自らが積極的に環境対策に乗り出し、世界に実証を示していく必要がある。環境を悪化させている国が主張しても、何の説得力もないからだ。同時に、国民の意識も環境配慮型に変革していかねばならない。ここでも教育というのが、重要なキーになってくる。
 このように地球規模での課題に対しては、全世界が一体となって解決への道を歩むしかない。自国の平和の実現のためだけではなく、世界規模の視点で考え、世界平和の実現のために尽力できることも理想の一つである。
 ここまで幾つか「理想の国」の条件を述べてきた。だがそれを口で言うのは簡単でも、実現しようとするには大変な労力と時間を要する。そこで私たちがいかに行動するかによって、理想を実現できるか否かが決まる。この世において、完璧ということは決してありえないが、実現が困難な上に、完璧はありえないからといって間違った道を歩むのではなく、少しでも理想の国に近づこうとたゆまない努力を続けていくことが最も重要だ。そして国民の幸せや世界平和のために、たゆまない努力をできる国こそが真の理想の国家なのではないだろうか。