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参議院60周年記念論文入賞者



「命」によせるこれからの日本

大阪府 清風南海中学校 3年
杉浦 由希子

 去る2006年12月12日。「今年の漢字」としてある一文字が、清水寺で書き出された。
    「命」
 いじめによる自殺が毎日のように報道されていた日々。飲酒運転による事故で失われた幼い子供たちの笑顔。親が子供を殺し、子供が親を殺すという悲しい現実。北朝鮮では核実験が行われ、不安を覚えたりもした。そんな2006年がこの「命」という一文字に込められている。
 他に投票された漢字には、「殺」や「死」、「悲」などがあった。そういった漢字を思い浮かべてしまう一年だった、というのは、やっぱり寂しいものがある。
 他人を殺め、自分をも殺め、そんな中で、「命」に対して、「命」が失われていくことに、だんだんと麻痺してきてしまっているような気がする。
 特に去年、印象深く残ったのは、いじめによる自殺の多発だ。辛くて辛くてしかたがないとき、「死」は甘い笑みをともなって近づいてくるのだろうか。そうして麻薬のようにその考えは「生」をむしばみ、身体をもほろぼしてしまうのだろうか。私にはわからないが、けれどもそこでは、「命」の存在が忘れられているように思う。「生」の中に「命」があるのか、「命」の中に「生」があるのか。どちらにしろ、その「命」に対して悲しむ人がいるだろう。私は今までいじめを受けたことも、さほど苦しい思いをしたこともないので、自ら命を絶つことを悪いとも良いとも言えないが、「命」は自分だけでなく、いろいろな人に支えられているということは、忘れてはいけないと思う。
 「命」は、自分の手の中にあるようなものでもあり、責任のような、背負っているものでもあるのではないだろうか。それは決して一人で決めて片付けられるものではなく、そしてまた、そうだからこそ自分自身が救われることもある。いじめられて、辛くて死のうとしたときに、母親の顔が浮かんでとどまったという話を聞いたことがある。そして今、その人は道を切り開き、充実した日々を送っているという。母親に支えられている「命」を思い出したとき、可能性が生まれたのだ。
 「命」には責任がある。そのことを自覚すれば他人を殺めようということも少なくなるのではないだろうか。ふと考えて思いとどまったとき、そこにはまた新しい可能性が生まれるかもしれない。
 私は「命」を考えるとき、『ハッピーバースデー』という本のある言葉を思い出す。
 「生まれてきてくれて、ありがとう。」
 生まれてきてくれたことに感謝すること、それが「ハッピーバースデー」の意味。私はこの言葉に感動した。これが、命の尊さなのだと思った。命に暗い今の時代だからこそ、重いけれども温かい、命の尊さを学ぶべきだと思う。
 「今年の漢字」に「命」が選ばれた理由に、もう一つ、大きなものがある。親王「悠仁さま」のご誕生だ。投票された漢字で二番目に多かったのが「悠」という字なのだから、悠仁さまは日本にとても明るい光を灯したのだろう。約40年ぶりの親王、悠仁さまは、日本を背負うほどの「命」をもって生まれ、また日本中の「ハッピーバースデー」の中でお生まれになったに違いない。去年の「命」の中でも、希望があることを思い出させてくれた。
 理想の国というと、いじめのない国だろうか。犯罪などもなく、公平で平和な国だろうか。いじめも犯罪も、消えることは決してないだろう。人間には必ず“影”の部分がある。その人間が造るのだから、国にも影はある。逆に人々が“影”の存在を忘れてしまうというのは恐ろしいことだ。それは単なる偽善に過ぎず、ゴミのようにたまった影たちはやがてあふれだし、飛び出すかもしれない。人間の醜さに目をつむってはいけない。そうしたことで、誰かの「命」を、たくさんの人の思いを、傷つけてはいけない。見つめて、受けとめなければいけない。
 飲酒運転による事故のあと、飲酒運転の取り締まりが頻繁になった。2006年の「命」は影が多かったが、そんなふうにして影を見つめ、光を大きくしたい。目をそむけない、しっかり見つめる。それもまた、私が夢見るこれからの日本だ。