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参議院60周年記念論文入賞者



ゆとり

東京都 小笠原村立母島中学校 3年
梅野 なぎさ

 東京の横断歩道を渡るのは嫌いだ。
 車のエンジン音、せわしなく迫ってくる靴の音、人々は険しい顔付きをしながら、早足でただ黙々と歩く。
 大都会の東京では当たり前であろうこんな状況の中にいると、私は耳を覆って逃げ出したくなる。そして思うのだ。人々は何をそんなに急いでいるのだろうかと。日本は、こんなにも忙しい国だったのかと。
 私は東京都の離島、小笠原諸島に住んでいる。人口約450人の島で、信号も電車もない。どこへでも歩いて行けて、時間もゆっくりと流れているような小さな島――。
「この島にはゆとりという鳥が飛んでいる。」誰かがそんなことを言っていた。
 東京に上京するのは年に1度のことだから、日本の中心となっている世界を目の当たりにすると愕然とする。大きな場所でありながらも、そこで暮らす人々は窮屈そうに私の目には映った。
 私がこれからの日本に望むこと――。それは、社会全体にゆとりが生まれることだ。
 最近、テレビや雑誌などのメディアを通して「癒し」という言葉をよく耳にする。それを使用することで癒される商品や、癒しをテーマとした旅行なども話題をよんでいる。
 癒しがブームになっているということは、現在多くの人々が「癒されたい」という願望をもっており、逆に言えばその部分が欠如しているということだ。
 そのことは、現代の社会問題の随所に見受けられる。
 業務上の過労やストレスが原因となって急死する過労死。年間1万人以上の人が亡くなっている。交通事故で死亡する人が年間約1万人だから、それ以上ということだ。生活のゆとりのなさは、人を死に追いやることまであるのだ。
 そして、ここ数年問題となっているいじめ。いじめられる側に一切の非はなく、いじめる側が100パーセント悪いと私は思うのだが、人をいじめようとする者の心に、ゆとりはあるのだろうか。心にたくさんの物がたまってしまい、自分で処理することができず、言葉にもできず、それを人にぶつけることで消化しようとする。心にゆとりがなければ、人に優しくすることはできない。
 このように、「生活のゆとり」と「心のゆとり」が現代の社会には不足しているように思う。では、それらを得るためにはどうしたらよいのだろうか。
 まず、生活にゆとりをもたせるために、労働時間を見直す必要があると思う。今の日本は、24時間営業の店があり、どの時間帯でも移動を可能とする交通機関が整っている。欲しい情報もすぐに手に入るし、たいへん便利な社会だ。だが、便利になるということはどこかで誰かがムリをすることにつながっている。長時間、そして深夜の労働、あるいは休日をとらずに働くと、心身に大きなストレスと負担がかかる。便利さやサービスが少し低下しても、働きすぎをなくすことを考えたほうがよいだろう。
 心の中にゆとりをもつためには、まず自分にゆとりがないことを認めることだ。心の中にストレスをため込んでいるのに、まだがんばれると思ったり、まだ平気だと思っていると無理しすぎることがある。自分の限界を見極め、そこで踏み止まることで心の中にゆとりが生まれる。
 人に自分の苦しみを話すのも一つの方法だ。人は自分の問題を誰かに話すことで、形にならなかった思いを知らずのうちに自分自身で整えていることもある。自分の苦しみの根っこの部分がはっきりすれば、その解消法を見い出すことができるかもしれない。
 しかし、ゆとりをもつことで他の何かを犠牲にしてしまうこともある。私が小学生の頃「ゆとり教育」が叫ばれ、学習内容が削減されたが、最近は学力低下が問題になっている。
 大人達は私達に何を求めているのだろう。ゆとりある学校生活なのだろうか。それとも学力なのだろうか。その両方を得ることは、はたしてできるのだろうか。今の私にはよくわからないが、一つだけ言えることがある。
 経済大国の日本は、生活面でも世界有数の水準に達しており、あらゆるものがあふれている。そんな日本に今一番不足しているのがゆとりだということだ。
 ゆとりを生み出すということは、現代日本がかかえる構造的な事柄と深く関わっている。たいへん難しいテーマだが、だからといってあきらめてはいけない。
 私は夢見る。日本人一人一人の心の中に、ゆとりという鳥が住みつく日を。
 「この国に生まれてきてよかった。」
誰もが、そんな風に思える日を。